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2016年9月28日水曜日

日本ハム優勝



これでやっと、とっておいた酒が飲める!

本当に、最後の最後まで、大谷翔平にオンブにダッコで優勝できた。
大谷のピッチングは、もう完全に大リーグ級のものである。

菊池雄星、って、東大病院の例の週刊誌記事を思い出した。


2016年9月27日火曜日

ショルティ






作成途中

井本絢子 小林麻央







 この前の日曜日の新聞の書評欄には、メイ・サートンの翻訳本に関するものが載っていた。
 アマゾンの利用法を覚えた頃(もう10年近く前になるだろうか)、メイ・サートンの本を何冊か買い、それでもまだたくさん(10冊以上は)販売されていたので、残りは買った本を読んでから注文しようと思った。いくらなんでも、一度に20冊もの洋書を注文するのは重荷である。
 半年くらいたってから、アマゾンのサイトを覗いてみると、「後で買おう」と思って注文していなかった本が、すべて消えていたことに気付いた。
 あの時の「ドジを踏んだ」という感覚は、いまだに忘れられない。
 つまり、本というものは、売りに出ているときに思い切って買わなければ手に入らなくなる、ということを教えてくれたのがメイ・サートン、ということになる。
 今回新訳が出た本も、そのときアマゾンから消えたもの。
 久しぶりにメイ・サートンの本を検索すると、この消えた本も含めて、数冊は再度売りに出ていることを発見した。もちろん、急いで注文した、メイ・サートンの伝記(珍しく彼女の若い頃の写真が表紙に使われている)も含めて。

 彼女の本で最初に読んだのが、
Journal of a solitude (1973)
 である。その、最初のページに、こんな文章がある。

 On my desk, small pink roses. Strange how often the autumn roses look sad, fade quickly, frost-browned at the edges! But these are lovely, bright, singing pink. On the mantel, in the Japanese jar, two sprays of white lilies, recurved, maroon pollen on the stamens, and a branch of peony leaves turned a strange pinkish-brown. It is an elegant bouquet; /shibui/, the Japanese would call it. When I am alone the flowers are really seen; I can pay attention to them. They are felt as presences. Without them I would die. Why do I say that? Partly because they change before my eyes. They live and die in a few days; they keep me closely in touch with process, with growth, and also with dying. I am floated on their moments.
(Words sandwiched between the two signs of /, are printed in Italic in original text.)


 今朝、庭に咲いている秋のバラを見ながら、そんな文章を思い出した。
Strange how often the autumn roses look sad, fade quickly, frost-browned at the edges! But these are lovely, bright, singing pink.
 星の王子さまに出てくるバラとは違って、まったく何の手入れもしないのに、この庭のバラは毎年ちゃんと咲いてくれる、文句も言わない。
 やがて霜にやられて、変色し、萎縮し、枯れて、散ってしまう。
 翌年にはまた新しく花がさくけれども、しかしそれは「違う花」である。
 一回きりの時間を生きて、バラは毎年庭で散ってゆく。
....they change before my eyes. 
 They live and die in a few days; they keep me closely in touch with process, with growth, and also with dying.
 I am floated on their moments.

I am floated on their moments. なんという、深みのある言葉だろう。目の前で咲き誇り、やがて枯れ、消えてゆく花をみて、スンナリと、意気込むこともなく、悟りの境地に至っている。

 実は、登山でも、この I am floated on their moments. という感覚に至ることができるのである。




 塗った眉毛が気持ち悪い・見ただけで吐き気がするこの井本絢子の登山番組など一度も見たことはなかった。ネットや雑誌で時折話題になっているから知っているだけのことだった。
 しかし、
「アイガー北壁」
 と連呼している宣伝(?)を知って、これは是非とも見たいと思った。
 アイガー北壁である。
 つい最近映画にもなった。小説『アイガーサンクション』も思い出した。ヒトラーが登頂成功者に金メダルを与えると宣言し、何人かの登山家が死んだあの北壁である。
 登頂には、何日もかかり、岩に吊るしたテントに寝泊まりする。そのテントの下は1000メートルの絶壁が切り落ちている......なんてことは、しかし、この井本の登山には無かった。
 羊頭狗肉とはこのことである。
 アイガー北壁という宣伝文句はいつの間にか雲散霧消し、要するに、アイガーという山の東稜を・標高差600メートルの岩山を、6時間かけて、エキスパートにしっかりザイルで守られて、登頂した暁にはヘリで下山という、「アイガー北壁登山」とは縁もゆかりもないドタバタエンタメ登山、だったのである。
 まぁ、それはいい。
 素人ができるのはその程度のことだろう、ヘリもエベレストをヘリで降りてきたあの阿呆老人日本人がいるのだから、何も文句は言わない。
 しかし、それにしても、この井本絢子という女の、言葉、仕草、表情、どれをとっても吐き気がするほどの下品さには、見ていてすっかり気分が悪くなった。


 この下品な女をなんとも思わないのだろうか、視聴者は。それほどまでに、視聴者は野卑で卑しい言葉や行動を愛しているのだろうか。井本絢子のやっている登山というものに対しては、
 ”下品登山”と名付けるしかない。三浦雄一郎はサル登山、野口健は若村真由美登山、糸蜘蛛男(竹内岳洋)はアホ登山、そして井本絢子は下品登山である。
 現代日本のテレビで見かけることのできる”下品御三家”、いや”3大下品人間”を挙げるならば、
松山千春
橋下徹
井本絢子
 で決まりだろう。


 で、この下品登山を見ながら、私は小林麻央のことを考えていた。
 この下品女の登山を視聴者が見るのは(視聴率17パーセント以上だったという)、何度も画面にエゲツなく出てきた文字が教えるように、
「死」
 がちらついているからである。一歩間違えば、死ぬ。その「他人の死」を見るという興味本位から、「他人の死を見られるかもしれない」という興味本位から、見る。たとえそれがこれほど魅力のない女性でも、1000メートルの崖を落ちたりしたら、あるいは、スイス人ガイドが命がけでそれを助けたりしたら、「みもの」だから、である。
 ローマ時代にコロセウムでグラディエーターたちが殺し合うところを興味本位で見ていたローマ人観衆と何ら変わりはしない。
 もちろん、下品女は死んだりしない。
 死ぬような事故をおこせば、この番組は終わりである。だから、「鉄壁の安全対策」を取っている。間違ったって(!)死なないように、ザイルでしっかり守られて、何人ものその道のプロが控えている。NHKバカ登山・100名山一筆書きに登場したサル・田中ヨウキに、10名くらいのスタッフや登山のプロがついていたのと全く同じである。

 要するに、
「死」
 を見世物にしているのである。「死ぬかもしれない危険な登山」を見て、ハラハラドキドキを売り物にしている。こんな下品な登山に強力しているその道のプロ登山家たちも、下品登山家の「称号」を受けるに十分に値する。
 下品登山家・貫田宗男
 下品登山家・中島建郎
 下品登山家・田村真司
 下品登山家医者・武藤文隆
 というように。

 死ぬかもしれないという危険な道を、両側が数千メートルどころか、永遠の深みに切れ落ちている危険な細い道を、懸命に歩いているのが、小林麻央である。
 二人の幼い子供の母親で、34歳で、骨にまで転移した乳癌と命がけで戦っている。
 かたや、テレビ画面で
「命を遊び道具にして・死ぬかもしんねぇーと喚きながら視聴率を稼ぐ」
 のが、下品女、30歳の井本絢子である。
 もちろん、こんなものは「登山」ではない。ただのエンタメであり、森三中の連中が、顔を歪めて涙を鼻水を流してバンジージャンプや大砲から打ち出されて湖に落ちるのと、何ら差異は無い。いや、森三中の連中がやっていることは単にお笑いで済ませることができるけれども、下品女のやっていることは「死ぬ死ぬ死ぬ」と煽っているだけに、低劣である。
 これほど命を大切にしない番組を放送して、命を「見世物」にして(要するに)人気を得よう・金を儲けようとしている連中は、低劣、としか呼びようがない。

 プロデューサーは、石崎史郎という肥満した陰湿そうな男である。
 石×、という名前。
 済州島小沢一郎の子分である「石」川知裕、や、内田裕也の家をレポートしていた「まいう」の「石」塚英彦、や、旧しばき隊幹部・現全国大学生協幹部の「石」野雅之、と雰囲気がそっくりなのは、私の個人的感想だけど。

 昔、グランドジョラスだかマッターホルンだったかの北壁を登った日本人登山家がいて、もちろん、何日もかかって登ったのだけれども、壁にテントを吊るして登っていたその数日間、毎日、その登山家の奥さんがヘリコプターでやってきて、「あなたー、がんばってー」というような応援をしていたという。地元の人たちは、この日本人夫婦の「バカぶり」に心底呆れ果てたという話を聞いたことがある。
 東稜から登ってヘリで降りるのは「普通にやっていること」というような話が出ているけれども(どこの誰が流しているのか不明)、普通の登山家がそんなことをやったりしたならそこで「登山家としては終わり」である。もちろん、エンタメドタバタ登山家の井本絢子がそうやって降りるのはいいけれども、日本山岳会のホープ、とか宣伝している男やその仲間までヘリで降りているというのだから、軽蔑するしかない。
 いや、こんなドタバタ登山をやっている日本人に対して、スイス人は心底呆れ果て、日本人全般に対して軽蔑を覚えたのではないだろうか。
Is it another wonderful way to defame Japan and Japanese by Korean-controlled-Japanese-TV ? (I am not taking of a specific person nor a particular company, from my viewpoint, almost all Japanese-TV companies are ruled by Korean and/or their henchmen. )


 小林麻央だけではなく、日本全国のあらゆるところに、癌や病気やその他、命を脅かすいろいろな不幸な出来事と戦っている人がいる。
 「真っ当な登山家」が真摯に命を懸けて登山する姿は崇高ですらある。
 しかし、下品女と下品プロデューサーたちが何の考えもなしに、ただただ視聴率欲しさで、他人を巻き込んで(ガイドもひやひやだっただろう、たとえたっぷりと報酬を約束されていたとしても)、命を弄ぶ見世物をテレビ番組にしている。
 ずっと、この番組を見ながら、死の恐怖と戦って、抗がん剤治療を受けている小林麻央のことを考えていた。
 死ぬかもしんねぇーと喚き続けていた井本絢子と、精一杯取り乱す姿を見せることなく・周囲に感謝しながら・死を見つめながら闘病生活を続けている小林麻央とでは、雲泥の差、バラの香水と豊洲の地下水ほどの差がある。


 昔、普通の医者をやっていたころ、私は乳癌の患者を何人か担当した。
 内科医は普通、乳癌患者の治療を担当したりはしない。
 しかし、自家骨髄移植併用超大量化学療法、という厚生省班会議のプロジェクトに「相棒(といっても彼の方が3年先輩で血液病治療の指導医)」が参加していたので、乳癌患者、骨や肝臓や肺に転移した彼女たちの治療に私も携わっていたのである。
 本当に、彼女たちは、両側が死へと切れ落ちている険しい道を、歯を食いしばりながら歩いていた。超大量化学療法に骨髄移植である、本当に苦しい治療だったのである。しかし、生きるために、癌患者の彼女たちは必死で毎日闘っていた。
 そうした女性癌患者たちの姿を思い出すので、この無思慮で下品な女性とスタッフたちが命を弄び死の危険を煽って視聴率を稼いでいるクズ番組には、吐き気しか覚えないのである。
 と、これは個人の感想です。


PS.  I am floated on their moments. これについては、また別のエントリーに記す予定。








































2016年9月26日月曜日

2016年9月25日日曜日

日本ハムは札幌市やHBCと手を切るべきである



 やっとマジックが3になった。
 大谷翔平におんぶにだっこ、というヨレヨレの状態ではあるものの、さっさと優勝を決めて欲しい。


https://thepage.jp/detail/20160422-00000004
日ハムの球団経営を圧迫する旧態依然の壁

2016.05.23 12:00 PAGE

 北海道日ハムが悩まされている問題がある。

 日ハムが本拠地としている札幌ドームが、この4月1日から使用料の値上げに踏み切ったのだ。消費税分の値上げだが、1試合の使用料が4万人の動員でおよそ1600万円に設定されているのでオープン戦も含め年間に70試合ほど使用し、この料金だけで9億円ほど支出していることを考えればバカにならない金額である。

 札幌ドームは2001年に開業、2004年から日ハムが東京ドームから本拠地を移転してきた。施設は札幌市が所有し、札幌市と道内財界各社が出資する第三セクター・株式会社札幌ドームが運営管理を行っているが、出資比率から考えると、実質、札幌市が運営している自治体の“ハコモノ”である。
 
 問題は、この基本使用料だけではなかった。日ハムはドームがコンサートやイベントなどで使用される度に日ハム側が資金を出したフィールドシートの撤去、設置を余儀なくされ、ドーム内のトレーニング施設の器具なども、すべて片づけなければならない。それらの経費だけでなく、警備費、清掃代なども球団持ちで基本使用料とは別に年間15億円ほどをドーム側に支払っている。しかもドーム内の飲食店の運営、売上げは、すべてドーム側。グッズに関しても、広島のような直営ではなくドームに卸す形態。また広告看板代に関しても球団が、2億5000万円で買い取っている。つまり年間、約26億5000万円をドーム側に支払っていることになるのだ。日ハムの年俸総額は、27億円超。ドームにかかる費用と、ほとんど変わらない。

 ある関係者が言う。

「極端な話を言えば、ドーム側が理解を示してくれれば、球団経営は本当の意味で黒字化して、ダルビッシュや糸井を簡単に出さなくて済んだのかもしれない。もっとチーム強化にもお金をかけられる」

 実は日ハムは、本社からの年間27億円に至る広告宣伝費の補填を受けているが、このお金がなければ、単体では赤字経営である。その経営を圧迫しているのが、この球場問題なのだ。

 ダルビッシュ有のポスティング移籍を認めたのは、本人の強い希望を受け入れたものであるが、年俸が高騰するダルビッシュを経営上、保持しにくくなっていた側面もある。球団単独での経営が厳しいのに、一方、ドーム側は黒字だというのだから、何をか言わんである。
 これまでも日ハムは、何度となく公式、非公式に使用料の値下げや運営権の一部譲渡を札幌ドーム側に訴えてきたが、すべてノー。しかも今回は、それらの要望を聞くどころか逆に値上げである。
(以下略)
(文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)


▲:札幌ドームは、札幌市の役人に天下り場所。そして反日放送局HBCの社長たちの天下り場所。元HBCの社長か何かをしていた男がドームの社長をやっていて、観客の頬骨を砕くような事故を起こしても安全ネットを張らず裁判闘争を続け、結着結合肉をステーキ弁当として球場内で販売するような阿漕な商売をしている場所。ともかく日本ハムから搾れるだけ搾り取ろうとする嫌らしい連中が、このチームの厄災となっている。
 日本ハムは一刻も早く、札幌市やHBCと手を切って、別の場所での球場運営を考えるべき。
 札幌市の役人やHBCのクズたちだけが「甘い汁を吸っている」今の現状から抜け出すべき。


参照

https://restfultime.blogspot.jp/search?q=%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0

資料 山本一郎 小倉智昭 大橋巨泉 阿呆たち

016.9.25 11:33 産経新聞
【新聞に喝!】
豊洲市場の「危険性」強調報道は適切か?これでは東北の風評被害と変わりない ブロガー・投資家、山本一郎
 築82年と老朽化の激しい築地市場の移転問題は、30年近い調整を経て豊洲新市場に移転を果たすはずが、移転費用を捻出できない経営状態の厳しい仲卸業者の反対と、都政の手続き論や降ってわいた土壌汚染問題などが乱舞して立ち往生を余儀なくされています。

 産経新聞でも小池百合子氏の都知事選当選後、早い段階からこの問題を取り上げ、8月31日(東京版)には「『やっと声が届いた』『なぜ、いまさら…』築地市場関係者 歓喜と戸惑い」として、賛否入り乱れる関係者の声を取り上げています。

 一方で、共産党都議団が14日に行った豊洲新市場地下の水質検査では、基準値を大幅に下回るレベルのヒ素しか検出されませんでした。強調された「強アルカリ性反応」にいたっては、コンクリートがそもそもアルカリ性であり、水に接すると石灰分が溶解し、水もアルカリ性になることも知らなかったようです。ヒ素や鉛も極めて厳格すぎるぐらいの環境規制をさらに下回るもので、シアン化合物も検査方法が不十分なものでした。健康に影響のない汚染レベルにまで改善しているにもかかわらず、大手全国紙やテレビ局がこれらを大きく取り上げ、かえって豊洲など東京湾岸地域全体のイメージを毀損(きそん)してしまったのは、市中の東北産農産品への放射性物質の影響がないのにいまなお風評被害が続いてしまっている現状と大きく変わりはありません。

 そもそも、盛り土も耐震能力への懸念も、大規模建築物を設計した経験のない自称有識者によって提起された問題をメディアがあおり立てているだけでは、正しい事実と見識を報じる役割を全うできません。

 スウェーデン一国に匹敵する財政規模の東京都という巨大な行政組織が「伏魔殿」のような状況になっていることと、実際の安全性や都庁内の行政処理の適切性とを切り分けて報じられないのは問題があります。

 移転反対派が掲げる汚染や耐震性能の不足などの問題は、然(しか)るべき科学的知識があれば退けられる程度のものにもかかわらず、一見すると説得力を持つようにメディアが報道してしまうことで、うのみにする読者が増えるのも仕方のないことではあります。メディアはやはり問題に関する専門的見地をしっかりと理解し、感情論的な扇動を排して正しい科学知識に裏付けられた分かりやすい報道を行う責任はあるでしょう。

 振り返れば、東京五輪関連予算や、原宿駅の建て替え、小池都知事が打ち出した待機児童をゼロにするための財政出動など、このところ派手な事件が立て続けに起きてきたのが東京都の現状です。高齢化が進み、少子化対策の最前線に位置する東京都が必要とする議論を、きちんと打ち立てなければなりません。世論形成に責任のある新聞が、問題を間違った切り口であおったり、過熱させたりしないよう、期待しています。



【プロフィル】山本一郎

 やまもと・いちろう 昭和48年、東京都出身。慶応大卒。専門は投資システム構築や社会調査。東大政策ビジョン研究センター客員研究員。


▲:この男、覚醒剤芸人に「資金提供」していたことで有名な小倉智昭の番組で(番組はコリアン企業が提供していることが多いけれど)コメンテーターをしている。ほとんどいつもクダラナイことを話していたように記憶する。
 覚醒剤芸人に資金提供したこの小倉は、娘にコリアンであることを暴露された大橋巨泉を恩人であると礼賛している。
https://twitter.com/bell_boyd/status/543740449509212160
 大橋巨泉の娘が、どの週刊誌のどの号でそのような話をしているのか、ネットを調べても不明である。
 大橋巨泉の家に集まってチョッパリへの悪口雑言で盛り上がっていたその酒席の中に、小倉智昭の顔もあったのかどうかも、不明である。








資料 桜井誠 プラカード男

「在特会」前会長の都知事選演説 「ヘイトスピーチ」か法務省に聞いた
2016/7/14 21:19 JCAST
   東京都知事選が2016年7月14日に告示され、各候補者は街頭演説などを行った。全国紙各紙の14日付夕刊は、主要候補とされる鳥越俊太郎、増田寛也、小池百合子の3氏を中心に取り上げた。
   そうした中、あの候補はどんな主張を行ったのか、と一部で注目を集めている候補がいる。民族差別的な言動をさす、いわゆる「ヘイトスピーチ」との関連で名前が挙がることも多い桜井誠氏(無所属、新顔)。市民団体「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の前会長で、14年に当時の橋下徹大阪市長とヘイトスピーチをめぐる面談を行い、その動画が公開されたことでも知られる。

「シナ」を連発

   桜井氏は6月29日、都知事選への立候補を表明する記者会見を行った。「日本に対して牙をむくような民族がいれば処断する」などと述べ、パチンコの新規出店を認めないなどの方針を掲げた。在日韓国・朝鮮人などへのヘイトスピーチに関する質問も出たが、これまでもヘイトスピーチを用いてはいない、「反日教育」を受けている人々が(日本から)出て行けと言っているだけだ、などと主張していた。

   桜井氏は実際、都内の朝鮮大学前でヘイトスピーチを行ったとして、2015年末に法務省から改善を求める勧告を受けている。

   今回の都知事選告示日の14日午後、桜井氏はJR池袋駅近くで街頭演説を行った。公約の一つであるパチンコ規制実施について訴える中で「池袋はシナマフィアの巣窟」「いつシナ人が暴れるか分からないから(この場に)警察がたくさん来ている」などと発言した。「シナ人どもの凶悪犯罪を止める」「いい加減、日本人もシナ人と戦う覚悟を持て」とも。

   「シナ」は、中国を示す蔑称とされ、14年には石原慎太郎・元都知事が辞任会見で多用したことが、マスコミなどで問題視された。

「背景や文脈を総合的に判断する必要がある」

   16年5月に成立したヘイトスピーチ対策法は、対象となる「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」について、

「本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由にして、適法に居住するその出身者又はその子孫を、我が国の地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」
と定義している。

   選挙活動において、ヘイトスピーチが疑われる言動があった場合はどのような対応が考えられるのか。法務省人権擁護局の担当者は7月14日、

「差別的な言動があったかどうかは、発言内容や背景、どのような文脈で使われたかなどを総合的に判断する必要があります。選挙活動においてもこの原則は変わらず、たとえば、候補者の演説の中で『シナ』といった言葉が出たからといって、直ちに差別的な言動だと判断することはできません」
と説明した。ただ、有権者から「候補者の演説内容が人権侵害である」と指摘され、その内容が人権侵犯事件とみなされた場合、法務省から候補者に対して改善を求める「勧告」や「要請」といった処置が取られることも考えられるという。

   公職選挙法との兼ね合いはどうか。東京都選挙管理委員会は

「選挙運動においては、原則として自由に政策や主義・主張をよびかけることができます。選挙管理委員会が演説の内容にまで立ち入って規制することはありません」
と答えた。演説内容に選挙管理委員が介入すると、選挙の自由妨害について定めた公職選挙法第226条に抵触する可能性があるという。演説内容に対する判断は、あくまで有権者にゆだねるという立場だ。

    桜井氏の池袋での街頭演説は、約20分で終了した。この間、在日韓国・朝鮮人に関する発言はなかった。




桜井誠氏の「Abema TV」チャンネル、「1日」で閉鎖 放送前から「ヘイト」批判殺到

2016/9/23 19:20  JCAST
  インターネットテレビ局「Abema TV」内に開設された「在日特権を許さない市民の会」元会長で、政治団体「日本第一党」党首の桜井誠氏(44)の公式番組チャンネルが、2016年9月21日の初回放送からわずか1日で閉鎖された。


   桜井氏のチャンネルに対しては、放送開始前から「即刻放送を中止して下さい」「巨大抗議で会社包囲したって良い」などと反発する動きが一部ユーザーの間で起きていた。

1回だけ放送された「桜井誠のズバリ言ったわよ!!」

   桜井氏の番組チャンネルが開設されたのは、個人や団体が動画を生配信できる「FRESH!by AbemaTV」というサービス。チャンネルの開設申請は誰でも無料で行えるが、放送内容などについて運営側の審査が入る。登録チャンネル数は1600以上で、一般ユーザーが個人で配信している番組も多い。

   そんな「FRESH!」上に、「桜井誠のズバリ言ったわよ!!」という番組チャンネルが開設された。同サービスの公式ツイッターアカウントは9月21日夕、同日20時から桜井氏のチャンネルでの放送がスタートすると告知。番組については「時事問題を中心に政治、経済、外交など幅広いテーマで語っていきます」と紹介していた。

   桜井氏といえば、在日韓国・朝鮮人などへの民族差別的な言動がたびたび物議を醸してきた人物。15年12月に朝鮮学校前で行った演説が「ヘイトスピーチ」にあたるとして、法務省から改善を求める勧告を受けたこともある。16年7月には「外国人への生活保護費支給を停止」などの公約をかかげ都知事選へ出馬。落選したものの、21人の立候補者の中で5番目に多い11万4000票以上を集めた。

   そんな桜井氏のチャンネルが開設されたとの告知ツイートを受け、ネット上では一部のユーザーの間で「即刻放送を中止して下さい」などと激しい反発が起きた。こうした「抗議」の影響か、桜井氏の放送を告知するツイートは番組の放送開始前に削除された。

   一部で起きた反発の動きは、桜井氏の番組が予定通り放送されたことでさらに「過激化」した。桜井氏によれば、21日の放送は「試験的な内容」。そのため、番組では今後の本放送を告知する内容が目立ったが、ツイッター上では、

「絶対に看過出来ない」
「開設前にある審査でなぜ通した?背景を明らかにするべき」
「巨大抗議で会社包囲したって良いくらい」
といった批判的な書き込みが「C.R.A.C.」(「レイシストをしばき隊」の後継団体)の関係者らを中心に出ていた。


   さらには、「Abema TV」に共同出資したサイバーエージェントとテレビ朝日、桜井氏の番組放送中に流れたCMのスポンサー企業などへの「電凸」(電話突撃)を促す投稿も複数あった。

「AbemaTVの判断で昨日9月22日に閉鎖いたしました」

   その後、桜井氏の番組チャンネルページは22日夜に閉鎖され、現在は「ページがありません」という文章だけが表示される状態に。こうした動きについては、桜井氏自身も同日20時からの動画サービス「ツイキャス」の生配信で、

「第一回を放送したばかりなんですが、ちょっとヤバい状況になっているそうでございます。(中略)長くは持たんだろうとは思っていたんだけど、まさか1回で終わることになるとは」
と言及。その上で、視聴者に対して「番組が継続できるよう、運営やスポンサー企業にメールを送って」などと呼び掛けていた。また、「Abema TV」側の担当者とは「今(9)月中に話し合うことになっている」とも明かしていた。

   初回放送からたった1日でのチャンネル閉鎖という「ドタバタぶり」に、ツイッターやネット掲示板では、

「番組でヘイト発言してから問題視しても遅くないだろうに」
「別にAbemaは悪くないし、言論弾圧になるんじゃないの?」
といった書き込みも出ていた。

   「Abema TV」の広報担当者は23日のJ-CASTニュースの取材に対し、

「桜井氏のチャンネルに関しまして、株式会社AbemaTVの判断で昨日9月22日に閉鎖いたしました」

とコメントした。桜井氏のチャンネルを削除した理由などについても質問したが、そちらに対する回答はなかった。
(引用終わり)








▲: 「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」
  というプラカードを持ってデモした男は、デモ隊に近づいていって、さもデモ隊の仲間であるかのように振る舞って、そして消えていったという。
 不思議なことがある。
 おそらくは「血気にはやった」コリアン系の「アンチヘイトデモ」の人たちが、こうしたプラカードを持った男に気づいたのだろうが、この男を「見逃している」ということである。

 私はもちろん暴力には反対だけれども、こんなプラカードを持っている男は、取り囲んで小突いて、少なくともマスクをはがして顔を明らかにするなり、あるいは身元を調べ上げて正式に抗議するなり、「精神的苦痛を受けた」ということで訴訟に持ち込んでも構わないと思う、こんなプラカードを掲げる男には。
 しかし、普段は恫喝的言動で有名なコリアン系の活動家たちは、この男を見逃している。
 Why?
 仮に、このプラカードを掲げた男が、コリアン系の策謀家だとしたら、全てが説明できる。
 偶然(?)、NHKがこの画像を手に入れて、早速放送し、早速コリアンを登場させて、
「全然自分が顔も何も知らない人が、殺せ、と言っているんですよね、自分のことを」
 と日本国や海外に向けても放送し、日本に住むコリアンがいかに圧迫されているかを宣伝している。
 ところが、そのプラカードで、コリアンを殺せと示した人物が、日本人なのかそれともコリアンなのか、それすらNHKは調べてはいないのである。
 もしこの、顔をすっぽり隠して、あたかもデモ隊の仲間であるかのように振る舞い、そしてどこへともなく立ち去った男がコリアン系だとすれば、NHKの素早い動きも(普段からコリアンに支配されているこのテレビ局の素早い動きも)十分に理解できることだろう。

 という流れで見てくると、この桜井誠、という人物もいったいどういう背景を持っているのか、怪しむことはできる。
 この男の軽率な発言を海外に発信することで、どれほどコリアンたちが自分たちを容易に正当化できるのか、少しでも冷静に考えてみれば理解できるだろう。
 桜井誠は、そうした意味で「コリアンマンセー運動」あるいは「コリアンによる日本乗っ取り運動」の「本当の戦士」なのかもしれない。

 という疑いのもと、この男の本を買ってきてみたけれども、当分読む予定はない。

PS 以下はウィキより、桜井誠の項目から引用する。
2013年(平成25年)2月23日、神奈川の竹島奪還デモ終了後、東神奈川駅に一人でいたところ、対立団体「レイシストをしばき隊(現・対レイシスト行動集団)」の隊長・野間易通、幹部・伊藤大介ら数名に襲撃され、唇を切る傷害を負った[15]。だが、桜井は彼らの氏名、住所などの個人情報が警察に流れ、警察がそれらの情報を全て把握したため、結果としてはよかったと語っている[15]。
同年6月16日、東京・新宿で行われた他団体のデモに参加しようと新宿駅に来た所、待ち伏せしていたしばき隊のメンバーらとと小競り合いになり、しばき隊のメンバーにメガネを奪われたため被害届を新宿署に提出しに行った所、しばき隊側が桜井のつばがかかったため相被疑であると主張して、共に現行犯逮捕されたが[16][17][18]、勾留延長はされず48時間以内に釈放され不起訴となった[19]。桜井は釈放後のニコニコ生放送で、デモ前の新宿駅でのもみ合いの過程で「つばがかかった・かからない」といった程度のことで逮捕されただけであるのにマスコミ[誰?]はデモ中での暴行事件と報じた、なおかつ不起訴つまり無罪であったのに顔写真、実名、住所まで報道しておきながら続報は伝えない偏向報道であると主張した[20]。また、自身のTwitter及びブログ上で、しばき隊及び関連団体の男組を「準暴力団」「広域犯罪組織」などと批判している[21][22]。(引用終わり)

▲:桜井誠はコリアンを殺せ、などという非道なプラカードを掲げたことはない。それでいながらこうして「襲撃」されている。コリアンを殺せ、というプラカードを掲げた男(コリアンか日本人かは不明)を「襲撃しない」レイシストしばき隊とは、一体何なのだろう? 草の根を分けてもこのプラカード男を探すのが彼らの本来の運動ではないだろうか。それをしないということは、要するに、私の推理が当たっているということなのだろう。




2016年9月24日土曜日

ショルティ自伝から


 この自伝は、ショルティの「語り」を基に、ハーヴェイ・サックスという作家が構成したもので、もちろんショルティの校閲が入っているとはいえ、内容も語り口も「軽い」ものとなっている。軽すぎて呆れる部分もある。たとえば、前妻と離婚して「相前後して?」娘ほどの年齢の若いイギリス人女性と交際し結婚したという経緯は、人間的悩みもあったはずだから深みのある話にできたであろうに、あっさりと軽く片付けられている。ショルティはこの件については詳しく語りたくはなかったのだろう。

 Harvey Sachsは、ルビンシュタインやトスカニーニに関する本を出していて、来年はトスカニーニの伝記を出版する予定になっている。


ウィキより引用

コレペティートル(ドイツ語: Korrepetitor / フランス語: corépétiteur)は、歌劇場などでオペラ歌手やバレエダンサーに音楽稽古をつけるピアニストを言う。ドイツ語圏では実際には「コレペティートア」と発音され、「レペティートア」(Repetitor)「ゾーロレペティートア」(Solorepetior)とも呼ぶ。日本では「コレペティトール」と呼称、表記されることが多い。英語圏ではフランス語に由来する「レペティトゥール」(繰り替えす人)という言い方が用いられる。給料の面ではソリスト扱いである。
オペラにおいては、各配役に対して実際の公演の際のオーケストラが奏でる音をピアノで演奏し、個人練習の伴奏と助言をすることで、歌手の譜読みや暗譜、更に発音矯正の手助けをし、音楽への理解を深めさせる仕事である。その職に必要とされる言語も最近はフランス語やイタリア語・ドイツ語だけではなくてロシア語までは最低要求される。ただ単にピアノ譜を弾くだけでは済まず、オーケストラ・スコアでの初見演奏・無調・プレストの弾き歌いや穴埋めまで要求される。

かつての名指揮者は、キャリアのスタートをこの職から始めることが多かった。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ゲオルク・ショルティなどは、若い頃この職を経験している。現在の指揮者はコンクールでの入賞をきっかけに活動を行う人が多くなったが、それでも、ウルフ・シルマーやファビオ・ルイジ、クリスティアン・ティーレマンのように、この職からたたき上げた指揮者も存在する。







P18~

 ヴェスプレームからブダペストに戻って間もなく、私は学校に通いはじめた。父の話では、初めて学校に行く道すがら、私は父を見上げて「パパ、これからぽくの苦労が始まるんだね」と言ったそうだ。ある意味で、その言葉はあたっていた。
 教師たちの給料は安く、教育レベルはとても高いとはいえなかったが、最初の数年間私は優等生で、クラスの中でもトップを争っていた。基礎課目の数学、ハンガリー語、文学、歴史のほかに、十一歳からはラテン語を、十三、四歳からはドイツ語を教わった。週に一度か二度、私たちはグループに分かれて宗教の授業を受けた。カトリックが多数派、プロテスタントとユダヤ教は少数派だった。私の両親は二人ともユダヤ教を信じていたが、子どもにはけっして信仰を押しつけなかった。私は信仰をもつことに抵抗はなかったが、集団化した宗教は嫌いだった。いまもそれは変わっていない。大勢の人と一緒に祈るのが、なぜかいやなのだ。祈りは個人的なものだと私は思う。父は、礼拝に出ない私にときどき小言を言い、父を喜ばせるために大きな祭日には私も一緒に礼拝に出席した。だが礼拝のあいだじゆう人の話し声が聞こえて、私はいつも気になった。「うるさいねえ!」と言う私を、父がたしなめた。「ユダヤ人にとって教会はわが家と同じなんだ」それは理解できたが、私の気持ちは変わらなかった。
 母は父ほど熱心な信者ではなかった。たびたびベーコンなどユダヤ教の掟に反する食材を使って、自分と私のために料理を作った。過越の祭の夜に「来年はエルサレムに行けますように」とだれかが言うと、「私はごめんだわ!」とかならずまぜ返した。一九二〇年代あるいは三〇年代に両親がエルサレムに行っていたら、私たちの運命はどれほど変わっていただろう。
 後年、私はモーツァルトが誕生したという事実こそ、神の存在を証すものだと思うようになった。そして年を重ねるにつれ確信を深めた。モーツァルトがこの世に生まれ、人類のために信じがたいほど多くの歓びと美を創造し、三十五歳の若さで消え去ったのは、偶然ではありえない。そこには崇高な意味があるはずだ。悩める人類に慰めを与えるために、なにかの力が働いたにちがいない。長女のガブリエルが生まれたとき――生まれて半時も経たない娘を初めてわが手に抱き、彼女の目が開くのを見たとき――私はとっさに生命と魂の奇蹟を感じた。その感覚は、信仰に近いものだった。


P80~

 シゲティの伴奏者になることに反対した「賢明な友人」とは、一九四三年に知り合ったヘトヴィヒ(ヘディ)・エークスリで、彼女に相談した結果、二日後には複雑な日常生活に終止符が打たれた。彼女はのちに私の妻となった。ヘディと知り合ったきっかけもシャイヘト夫人からの紹介だった。夫人はきわめて積極的な仲人役を務めていたのだ。彼女はヘディの結婚生活が行き詰まっていたこと、私のほうは失恋で悩んでいたことを承知していた。ヘディとの関係は、最初のあいだきわめて障害が多かった。彼女は歴史家で国会議員でもあるギテルマン教授の妻であり、幼い子の母でもあった。知り合ったときは、第二子を身箭って妊娠二、三ヵ月という状態だった。だが彼女は夫も子どもも捨てて家を出る決心をした。
 ヘディの父親はチューリッヒ大学で化学を教えており、彼女自身もチューリッヒの知識階級に属していた。頭がよくて垢ぬけている彼女に、私はずいぶん助けられた。年齢的には私が二歳年上だったが、いろんな意味で彼女のほうがずっと大人に思えた。音楽の道に入ったため、私は正規の高校の授業を受けていなかった。自分が知っていると言えるのは音楽だけだった。それ以外の興味はスポーツと政治にかぎられていた。スイスで暮らしはじめた当初から、私は世界情勢を知るためにノイエ・ツーリヒャー・ツアイトゥンク紙を毎日読み、チャーチルとローズヴェルトを敬愛した。そしてヘディは親切心から私に礼儀作法を教えてくれた-ただし、あまり成功したとは言えない。本を読んで知識を身につけるよう、励ましてくれたのも彼女だった。その習慣を私はいまもつづけている。


P90~

 私はウィンストン・チャーチルがチューリッヒを訪れた際、市庁舎広場でおこなった有名な演説に大いに共感した。その中で彼は、ドイツとフランスは過去を水に流し、ともに手をたずさえて新生ヨーロッパの建設につくすべきだと語った。私は新生ヨーロッパという言葉を深く心に刻んだ。残忍な犯罪がおこなわれたのは事実だが、批判していても状況は変わらない。私たちは前を見るべきなのだ。五十年経ったいまでも、私はヨーロッパが統合してこそ、前に進む力が生まれると信じている。
 私は信じられないほど運のいい時期に、ミュンヘンに行った。ナチが排斥されたため、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ハンス・クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウスといった大指揮者がドイツで演奏できなくなっていたのだ。その一、二年後、状況が緩和されて大物たちが舞い戻った時期であれは、私のような駆け出しが、ヨーロッパの指揮者にとってきわめて重要な地位であるバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任することなど、とてもむりだったろう。さらに私にとって運のいいことに、連合軍政府から見て、当時その地位に政治的な観点から合格点がつけられるドイツ人指揮者は皆無だったのだ。
 その後の経過を振り返れば、私のとった行動は正しかった。ここでもまた、守護天使が私を守り導いてくれたとしか思えない。生まれつき臆病な私が、手紙の指示だけを頼りにドイツヘ行き、オープン・ジープで夜中に瓦礫のあいだを走ったのだ。いまにして思えば、悪夢のような話だ。
 歌劇場は、なにもかも一から出直しの状態だった。歌劇場を襲った爆撃と火災によって、装置も衣装も一切が失われていた。なにをやるにもすべて新たに作り直す必要があったので、一シーズンにつき新演出による舞台はわずか三つからせいぜい六つがやっとだった。私は若さも気力も野心も才能も充分にあったので、ひとつのオペラのスコアに目を通しながら、同時にべつのオペラのリハーサルをやり、またべつのオペラの本番を指揮する、といった日常もこなすことができた。だが、すべての演目――一シーズンに十から十五はあった――をひとりでやっていたら、死んでいただろう。私の指揮者生命は、始まる前に終わっていたにちがいない。
 ミュンヘンで「フィデリオ」をやったあと、私はジープでふたたびスイスに戻った。十月にアメリカ軍の音楽担当士官ジョン・エヴァーツが、軍のトラックで迎えにきて、私はヘディとともに荷物をまとめてミュンヘンにむかった。荷物は大きなスーツケースが十四個。中には衣類、チョコレート、缶詰の食糧、サラミ、そして貴重品の煙草。民間人には食糧も燃料もかぎられ、ろくな住まいもなく、煙草だけが何とでも交換できる貴重な通貨だった。大勢の人が爆撃を受けた建物の地下で、燃料も水道もなしに暮らしていた。
 エヴァーツが私たちの落ち着き先を見つけた-マクシミリアン通りにある一部焼け落ちた建物の一階の小さな部屋で、一階にはほかにもT人二人住人がいて、ダーテ夫人が経営する小間物証もあった。街は寒く灰色で気が滅人った。ミュンヘンが廃墟から立ち直るには五十年はかかると思われた。それがなんと! 六年後に私がこの街を離れるころには、みごとに変身していたのだ。瓦礫の山と化したときから五十数年経った現在、ミュンヘンはヨーロッパでも最高に豊かな都市のひとつとなっている。
 ミュンヘン時代はヘディと私にとって最も幸せな時期だった。彼女の活力と知性が私には大きな支えになった。彼女は私に音楽的な助言を与え、家事を切り回し、煙草や劇場のチケットを野菜その他の食糧と交換した。最初の冬の寒さは猛烈だった。プリンツレゲンテン劇場の冷えきったロビーで「カルメン」をリハーサルしたときは、指揮をしている最中に頭からふきだす汗がたちまち凍ってつららになったほどだ。


 だれもが音楽に飢えていたから、公演は毎回熱狂的な聴衆を集めた。


P96~

 ミュンヘンで仕事が見つかったこととあわせて、当時のドイツで最高と言える歌手だちと仕事ができたのはじつに幸運だった。歌劇団の基礎は戦時中にクレメンス・クラウスの手で作られた。彼は音楽的にはリヒャルト・シュトラウスの弟子で、政治的にはゲッベルスの寵児だった。ナチにとってクラウスは神さまだった。彼が君臨した時代の歌劇場には考えられるかぎりの贅がつくされた。彼が公演した「ばらの騎士」の舞台は、ドアの把手にまで金メッキがほどこされたという。残念ながらその真偽のほどはたしかめられなかった。装置はみんな戦争で焼けてしまったのだ。私は一度もクラウスには会えなかった。彼がミュンヘンを訪れたとき、友人が彼を私の指揮する「トリスタン」に誘ったのだが、彼は断った。オーケストラのフルート奏者の話によると、クラウスは私が「トリスタン」を振るのは初めてだと聞いて、こう言ったという。「では、行くのはやめよう。『トリスタン』を初めて指揮するときは、だれもうまくいかない」そういうものかもしれない。だが、通則を跳ね飛ばす例外的な才能だって存在するはずだ。かたやフルトヴェングラーは私の「トリスタン」を見にきてくれて、秘書にあの指揮者にはたしかに将来性があると言ったそうだ。
 だが、指揮者としてのフルトヴェングラーにたいする私の意見は複雑だった。ザルツブルクでトスカニーニと仕事をして、完全にその魔力の虜になっていたため、私はフルトヴェングラーの解釈はすべて誤りだと、反射的に決めつけるようになっていた。あとになって音楽づくりに唯一絶対の方法はないと学んでからは、フルトヴェングラーの考え方に興昧がもてるようになった。戦時中に私は、彼がヴィンテルトゥール管弦楽団にブルツクナーの交響曲でリハーサルをつけるところを見学した。驚いたことに、彼はこの優秀とは言えないオーケストラに各楽章を通しで演奏させてから、ディテールに入った。当時はわからなかったが、それこそ本当に頭のいいやり方なのだ。二流のオーケストラを相手にするときは、とくに。奏者たちにまず全体をわからせないと、大いに時間をむだにすることになる。その後、ミュンヘンとザルツブルクで私はフルトヴェングラーの演奏を聴いた。ザルツブルクでの演奏会のあと、私が今夜のウィーン・フィルは前夜のカラヤンのときより、ずっとできがよかったと話すと、彼は嬉しそうに顔を輝かせた。とるに足りない私の感想にもあれほど喜ぶとは、カラヤンにたいする反感が相当強かったにちがいない。

 フルトヴェングラーにたいする私の気持ちは、その後も変化した。ベートーヴェンの交響曲第九番を最近見直していたとき、レコードで彼の第一楽章を聴き、あまりに遅すぎると感じた。絶大な確信と偉大な力にあふれてはいるが、基本的に間違いではないかと思う。この作品は、もっとドラマチックに演奏すべきではなかろうか。もちろん、すべて趣味の問題であり、解釈上の意見は違っても、この偉大な指揮者にたいする私の尊敬は変わらない。フルトヴェングラーは天性のオペラ指揮者ではないというクレンペラーの指摘に私は同感だ。彼は素晴らしい音楽家で、音楽について深く考えてもいたが、歌手だちとともに「呼吸する」ことは不得手だった。オーケストラ・ピットにいるときの彼は、不思議にいつも居心地が悪そうだった。だが自由なフレージングについて、私は彼から多くを学んだ。それはトスカニーニからは学びえないことだった。力強さとフルトヴェングラーの自由さとを両立させること、私がつねに目標としたのはそれだった。
 フルトヴェングラーはアメリカが嫌いだった。私がシカゴのリリック・オペラに客演指揮で出かけると伝えたときは、こう言われた。「なんでまた。君はヨーロッパにいるべきだ。行くんじやない!」
 彼が反米感情をもつようになったのは、戦後シカゴ交響楽団の理事会から拒否されて以来だと思う。ナチの信奉者と思われたためだが、彼のほうはナチ排斥運動の不当なスケープゴートにされたと思っていた。



P138~

 正直に言って、ウィーンで壁につき当たった原因は、私自身にもあった。私は四十五歳になっていたとはいえ、指揮者としての経験はまだ十一年しかなく、それも二流オーケストラとの仕事がほとんどだった。一流オーケストラとの仕事に不慣れな指揮者は、自分の力を誇示するのに精一杯で、オーケストラがひとりでに作りだせるいいものを聴き取ろうとしない。指揮者としてまず最初にすべきほあらゆる部分で自分を押しつけることではない。なによりまず「聴く」ことが肝心なのだ。それを私はまだ学んでいなかった。いまでは、オ-ケストラの解釈が自分の考えよりすぐれていると思えば、私はそれを認め喜んで採用する。だが四十年前には、そんなことはわからなかった。
 もうひとつの原因は、スケジュール的なことIだった。ウィーン・フィルのメンバーは、大半が午前中は国立歌劇場でリハーサルをし、夜はその本番で演奏する。録音のために割ける時間は午後二時から五時までか、三時から六時までだった。ウィーンの人たちはたいてい重い昼食をとる。というわけで、眠気に襲われ、やる気のない奏者たちを前に、私は世界を征服せんばかりの勢いで飛んだり跳ねたりしていたのだ。
 問題はたちまち表面化した。ワーグナーの楽劇の第三幕冒頭にある〈ワルキューレの騎行〉をやっていたときだ。金管が主題を思い入れたっぶりに演奏し、八分音符は長すぎ十六分音符は短すぎた。私は正確なリズムで演奏するように言った――それが彼らの反感を買った。反感の原因は、私が自分の思いどおりにさせようと、彼らに具体的な指示をだしたことだった。解釈上で相違があると、彼らは自動的に私のほうが間違いだと考えた。それがとくに顕著に表われたのは、私が出だしの和音を完全に揃えて演奏するように要求したときだ。彼らは、和音は正確に揃わないほうが「温かい」と考えていた。私に言わせれば、それは「みっともない」ことでしかない。
 長いあいだウィーン・フィルは、私にたいして「俺たちのほうが上だ」的な態度をとりつづけた。私たちの関係が最悪になったのは、一九七二年に「魔笛」の録音のためにリハーサルをしていたときだ。第一ヴァイオリンのひとりが、途中でふいに立ち上がり、「こんなことは、もうごめんだ!」と言って出ていってしまった。私はなにごともなかったかのようにリハーサルをつづけたが、内心は激しく動揺していた。指揮者の中には権力を濫用し、不遜な態度をとる者もいるのはたしかだ。だが、オーケストラ・メンバーも同じくらい残酷に相手を傷つけることができる。何年ものあいだ、私はウィーンでいちばん好きな道は、空港にむかう道路だと口癖のように言った。ウィーンを離れるときはいつもほっとしたものだった。
 過去に感情的なもつれや考え方のちがいはあったが、ウィーン・フィルと私は素晴らしい録音を数多くおこなった。私がシカゴに渡る前年はとくに。ワーグナーの「ニーベルングの指環」の初の全曲スタジオ録音は、レコード史上でも画期的な偉業と言われることが多い。録音の経緯は、レコーディングのプロデューサーだったジョン・カルショーの著作『鳴り響く指環』でも、一九六五年にハンフリー・バートンが制作したテレビ・ドキュメンタリー「黄金の指環」でも詳しく紹介されている。不思議なことに、この録音は綿密に計画を綿った上で実現されたわけではなく、偶然から生まれたものだった。
 カルショーは、一九五〇年にミュンヘンを訪れたとき私の「ワルキューレ」を聴いた。そして私と「指環」全曲を録音したいと考えた。私たちのどちらも当時はまだ駆け出しだったことを考えると、ずいぶん思い切った発案だった。しかし私がウィーンで一九五七年に「ワルキューレ」第二幕の〈死の予告の場面〉と第三幕を録音するまで、なんの勤きもなかった。録音は評判がよく、私はスイス・デッカの社長モーリツ・ローゼンガルテンと今後の計画を話し合いに、チューリッヒに出かけた。
「『ワルキューレ』が成功したのは、うれしいことです」と彼は言った。「そこで、全曲録音を決めました……クナッパーツブッシュと」それを聞いた私はがっくりきた。もちろんクナッパーツブッシュはスターで、私はちがう。そしてレコードを売るにはスターが必要なのだ。しかし録音は進捗しなかった。一回めの録音のあと、カルショーがクナッパーツブッシュに調整室でプレイバックを聴いてほしいと頼んだ。
「なんで聴く必要がある。たったいま聴いたばかりじやないか!」この言葉で、指揮者とカルショーの仕事が噛み合わないのは歴然となった。録音は第一幕を録り終えたところで頓挫した。クナッパーツブッシュはキャンセルし、カルショーはかわりに「ラインの黄金」を私の指揮で録音するよう、急遽ローゼンガルテンを説得した。カルショーと私はキルステン・フラグスタートを筆頭に、一流のキャストを確保した。
 録音は一九五八年にウィーンでおこなわれた。最初の晩、カルショーと私はホテル・インペリアルのバーで、翌日の予定について話し合っていた。その最中にヴァルター・レッグが姿を現わした。そのころレッグはヨーロッパ音楽界では帝王のような存在だった。EMIのレコード帝国に君臨し、当時イギリス最高の楽団だったフィルハーモニア・オーケストラの取締役を務め、王立歌劇場その他の重要な音楽団体で権力を振るっていた。彼は才能発掘にかけても凄腕だった。カラヤン、ゲザ・アンダ、エリザベート・シュヴァルツコップ(レダダの妻だった)など、数多くのアーティストを国際的なスターに育てあげた。彼は一度フランクフルトに私を訪ねて、デッカからEMIに移籍しないかともちかけた。芸術的にも経済的にもそのほうが有利だと数々の条件を挙げた。だが、私は誘いに乗らなかった。レッグが信用できなかったのだ。彼が指揮者や器楽奏者や歌手をつぎつぎと手玉にとることは有名だった。しかも純粋に商売の見地から、レッグはワーグナー作品の録音には消極的だった。たとえばフルトヴェングラーとさえ、「トリスタン」と「ワルキューレ」しか録音していない。
 意外なことに、レッグとカルショーはそれが初対面だった。私が二人を引き合わせると、レッグが私にむかって訊いた。「ここでなにしてるんだ、ショルティ」
「『ラインの黄金』を録音するんです。明日が第一回めの録音で」
「『ラインの黄金』だって?」彼はカルショーをじっと見た。「傑作だが、五十セットしか売れないぞ」
 彼の予言は大いにはずれた。私たちは時間をかけて、音楽的にも技術的にも懸命に練り上げた。そしてついに発売されたレコードは、火の玉のようだった。まさにセンセーションを巻き起こした――以来、カタログから消えたことはない。
 私は「ワルキューレ」の全曲録音の話が持ち上がるだろうと思ったが、期待ははずれた。モーリツ・ローゼンガルテンは、RCAのヨーロッパでの配給権も握っていて、RCAの製品売上げでデッカ全体の売上げと同じくらい収益を上げていた。RCAの副社長ジョージ・マレックはローゼンガルテンに、RCAではラインスドルフ指揮で「ワルキューレ」の新録音を予定していると話しか。そして同じオペラをデッカでも録音するなら、君は自分で自分の首を絞めることになると言った。カルショーが「ワルキューレ」の録音の話はすでにショルティと了解ずみだと抗議すると、ローゼンガルテンはかわりに「ジークフリート」を録音すればいいと答えた。その二、三年後にやっとローゼンガルテンは、「ラインの黄金」が目覚ましい売上げを示しつづけているのに気づいた。デッカにたいし、音楽ファンや批評家から「指環」全曲録音を望む声が多かったのも一因だろう。ついに彼は「神々の黄昏」のあと、デッカ独自に「ワルキューレ」を録音する決定を下した。全曲録音は一九六五年に完了した。というわけで、壮大な「指環」計画も、実際には瓢箪から駒がでたようなものだった。だが結果は苦労と心痛を充分埋め合わせてくれるものだった。「指環」の最後の音がテープに刻まれてから三十二年経った現在、最新技術を使って全曲盤の新しいマスターテープが作られ、新しい世代の聴き手にむけてふたたび提供されようとしている。
 カルショーは熱血漢で、音楽にたいする直感力も趣味のよさも持ち合わせていたが、技術家ではなかった。録音の技術面を担当したのは、きわめて優秀な技術者ゴードン・パリーだった。私の初期のレコーディングにこの有能な二人がいてくれたのは、運がよかった。彼らは人材を集めて最高のチームを編成した。ときには意見の食い違いもあったが、私たちは芸術的なコンビを組んで非常に満足すべきすぐれたレコードを制作できた。


P146~

 ときどき私は、すでにロサンゼルス暮らしの長いブルーノ・ヴァルターを訪ねた。彼とはプダペスト時代以来の知り合いだった。彼が指揮するヴェルディの「レクイエム」のリハーサルで、私がピアノを弾いたのだ。そして彼の尊敬するトスカニーニと私がザルツブルクで仕事をしたときにも出会っていた。彼の家ではいつもコーヒーか紅茶をすすりながら、二人で噂話に興じた。あるとき彼はトスカニーニのリハーサルを録音したレコードをかけた。マエストロが怒りを爆発させるところが、とくに彼のお気に入りだった。なかでも、大喜びしたのはつぎの場面だ。トスカニーニが「だめだ! だめだ!」と、どこがだめなのか説明もせずに言いつづける。遠くのほうでだれかが「でもマエストロ、どうすればいいんです?」と尋ねる。それでも「だめ! だめだ! だめだ!」とひたすら叫び声がつづく。何年ものちに、シカゴで私は元NBC交響楽団のメンバーだったチェロ奏者のフランク・ミラーに、あの声の主はだれだったのか尋ねた。「私ですよ」と彼は答えた。「マエストロがどうしたいのか、わからなくてね」おなじくらいおかしいのが、ヴァルター自身がモーツァルトの交響曲「リンツ」をリハーサルしているレコードだ。一回めは非常にいい演奏なのに、リハーサルすればするほどだめになるのだ。
 私はヴァルターを心から尊敬していて、ミュンヘン時代には彼が歌劇場の音楽監督だったとき「マタイ受難曲」を指揮した際におこなった省略を、そのまま踏襲したほどだった。のちに私はその省略はすべきでないと考え、原曲どおりの演奏に改めた。そして彼が回想録の中で、あの省略は自分が犯した音楽的大罪のひとつだったと語っているのを読み、私は胸をなでおろした。
 マーラーを指揮しはじめたとき、私はマーラーと交流のあったヴァルターから多くを学んだ。ヴァルターは明瞭とは言えない不思議な拍の刻み方をしたが、彼は拍を刻むだけが指揮者ではないという生きた証だった。指揮は目と魂でおこなうものだ。ドイツ派の指揮法では、オーケストラは拍に合わせず、少しずらせて演奏すべきだと教える。それが過去百年間伝統とされてきた。フルトヴェングラー、ヴァルター、カラヤン、そしてベームがその継承者で、現在でもウィーン・フィルとベルリン・フィルはその方式を守っている。このスタイルの支持者は、和音が少しずれたほうがまろやかな音になると考えている。ウィーン・フィルのコンサートマスターで一流の音楽家であるライナー・キュッヒルは、こう言っている。「拍に合わせて演奏すると、アタックにまろやかさが失われ、つねにスフォルツァンドになってしまいます」私はそうは思わない。ほかのどこのオーケストラを指揮した経験から言っても、正確であると同時にまろやかな表現はできるものだ。この二つのオーケストラを指揮するときはいつも、私は拍からずらさずに拍に合わせて演奏してほしいと頼む。しかし習慣が深くしみついているため、努力はしてくれるものの、私たちはどこかで妥協することになる。私は彼らにいつもこう言った。「一時間半遅れではなく、十五分遅れにしてほしいね」
 いっぽう、イタリア派――トスカニーニ、ヴィクトル・デ・サバタなど――の指揮法では、奏者たちに拍どおりに演奏させる。アメリカのオーケストラと指揮者たちも同じだ。私はトスカニーニ派だ。フルトヴェングラーがローマの聖チェチーリア音楽院でベートーヴェンの交響曲第五番を指揮したときの、有名な笑い話がある。第五番の出だしをどう振るかは、恐ろしくむずかしい。フルトヴェング
ラーは指揮棒をいつまでも振り降ろさずに、ひたすら上へ上へと持ち上げていった。彼の腕が天を指しつづけるなか、客席からだれかが叫んだ。「負けるな、マエストロ!」 またあるとき、だれかがベルリン・フィルの奏者に、あんなに刻み方がわかりにくいフルトヴェングラーの指揮で、はじめのきっかけをどうやってつかむのかと尋ねた。その奏者は答えた。「みんなコントラバスを見てるんだ。彼が五つまで数える。それを合図にぼくらがはじめるのさ」 いずれも根も葉もない話だが、本質はついている。
 私はヴァルターのリズムに明確さが欠けていると思うことがある。また彼はリハーサルでオーケストラに説明する際に、文学的な言葉を使う傾向があった。私はそれは根本的に間違いだと思う。オーケストラの奏者が知りたいのは、どの十六分音符がよくないのか、それはなぜで、どう直せばいいのか、といった具体的なことだ。オーケストラの前に立つときは、自分の美学や哲学をひけらかしてはならない。肝心なのは音楽上の問題が起きたときに、それを指摘することだ。
 ヴァルターは一九六二年に亡くなったが、その数年前、私は娘につき添われたヴァルターとコペンハーゲンからロサンゼルスまでの長距離飛行機で乗り合わせた。当時はジェット機以前の時代で、大型飛行機ではファーーストクラスの後部にベッドが用意されていた。そのとき私のベッドがヴァルターのとなりだったので、私たちは消灯時間になるまで音楽についておしゃべりをした。ロサンゼルスに到着すると、ヴァルター父娘はだれよりも先に飛行機を降りた。ヴァルターが高齢で弱っていたからだ。

▲:下手に教養というものが無かったショルティの強み。


P186~
 一九六七年二月、私はコヴェント・ガーデンでの自分のレパートリーに、「フィデリオ」を加えた。数年前オットー・クレンペラーがこの舞台を指揮し、その演奏は驚くほど音楽的だった。彼は半身麻痺で指揮台に行くにも困難がともない、台詞が語られる部分では彼がぶつぶつ独り言を言うのが聞こえたが、音楽的な意図は明快だった。戦前、クレンペラーの最盛期に、私はブダペストでベートーヴェンの交響曲のみごとな演奏を聴いた。彼は演奏では絶大な力を発揮したが、生涯躁鬱病に悩まされ、突飛な行動も目立った。私は戦後ブダペストに戻ったとき、彼が首席指揮者を務めていた国立敵劇場で「フィガロ」の舞台を見た。そのとき彼は病的な状態にあり、客席でだれかが咳をしたりざわついたりするたびに、くるりと振り向いて「うるさい!」と叫ぶのだった。終演後カーテンコールで舞台に立った彼は、片方の靴が痛かったらしく、聴衆の目の前で靴を脱ぐと、手にもって振って見せた。私はその折りに彼をホテルに訪ねた。部屋に入ると、彼は半裸の状態でソファに寝そべっていて、身体じゅうに口紅の跡がついていた。そして私を見るなり、「君はトスカニーニが好きなんだって」と尋ねた。
「ええ、とても」私は答えた。
「ふーん」と彼は不満げに言った。「あいつは悪趣味だ。それに家庭生活がどうなってるか、知ってるか? やっこさんがニューヨークに行くとなると、いつも夫人はヨーロッパに置いてきぽりなのさ。じつにけしからん!」そんなことを言う本人も、とても家庭人の手本には見えなかった。だが最晩年にフィルハーモニア・オーケストラを指揮したときの彼は、ずっと情緒的にも安定していた。そして私にたいしてはいつもやさしかった。


P226~

 一九八三年の夏に、私はバイロイトでワーグナー自身が創設し、偉大なワーグナー指揮者たちが活躍してきた祝祭劇場で「指環」を指揮した。バイロイトでの演奏は、私のようにワーグナーに多くの時間を割いてきた指揮者には、とくに意義深い体験である。だが実際には、苦労の連続が待っていた。
 一八七六年に始まったバイロイト音楽祭は、つねにワーグナーの親族が運営にあたっできた。最初は作曲家自身、つづいて彼の未亡人コジマ、息子ジークフリート、そのイギリス生まれの未亡人ウィニフレッド(ヒトラーの友人で支持者だった)が歴代の監督を務めた。戦後ウィニフレッドのあとを二人の息子ヴィーラントとヴォルフガングが受け継いだ。才能に恵まれたヴィーラントは一九六六年に早すぎる死を迎え、弟のヴォルフガングが全権を握った。彼には運営の才はあったが、芸術的には力不足と言えた。
 音楽祭は二つの点で際立っていた。劇場の素晴らしい音響と、ノルベルト・バラッシュ指揮による
すぐれた合唱である。だが、基本的に音楽水準は低かった。スターを招く予算が不足していたのだ。長年のあいだ、音楽祭事務局はかなり低額の予算で東ドイツの優秀な奏者と契約することができた。奏者たちは西ドイツにきておいしいものを食べ、衣類を買い整え、夏の終わりにドル払いのギャラを受け取って祖国に戻れた。その後、東ドイツの元首エーリッヒ・ホーネッカーが国外への旅行を制限したため、両者にとって有利なこの契約が不可能になった。その結果、一九八三年以降はバイロイト管弦楽団は基本的に西ドイツの奏者で構成された。だが、事務局は西ドイツのすぐれた奏者を雇うことができなかった。腕のいい奏者はメインのシーズン中に充分稼げたから、夏期休暇のあいだは、雨の多いバイロイトでニカ月働くより、海か山に出かけたがった。そこでオーケストラはどうしても二流にならざるをえなかった。
 しかし最大の問題は配役だった。私が「指環」を録音した二十年前には、ニルソン、ホッター、ヅィントガッセンがいた。だが一九八三年に依頼できた歌手の顔ぶれは、それと桔抗するとは言えなかった。ブリュンヒルデのヒルデガルト・ベーレンスは役をよくこなし、いい点もたくさんあった。ウォータンのニムスゲルンは、美声の持ち主だったが圧倒的な力を必要とするこの役には小物すぎた。ジークフリート・ジェルーサレムも魅力的でリリカルな声をもっていたが、モーツァルトなどのもっと軽いレパートリーむきで、彼のジークムントは平凡だった。そして最も問題なのが、ジークフリート役のライナー・ゴルトベルクだった。私はコヴェント・ガーデンで彼をオーディションしたことがあり、バイロイト祝祭劇場でも、ヴォルフガング・ワーグナーの立ち会いのもとでオーディションをした。その二回とも、私は「この声こそぴったりだ。メルキオール以来の天性のワーグナー・テノールだ」と思った。ラウリツ・メルキオールはデンマーク人で、音楽性はそれほど感じられないが、一九三〇年代から四〇年代にかけての最もすぐれたワーグナー歌手だった。私は彼が初期のレコードで「ワルキューレ」の〈冬の嵐〉のアリアを、ワーグナーの指示した八分の九拍子ではなく八分の十拍子で歌っているのを聴いて驚いたことがある。そして何年ものちに、ロサンゼルスの慈善リサイタルでメルキオールが同じ曲をピアノ伴奏で歌ったのを聴いたが、なんと彼はやはり八分の十拍子で歌い切った。
 そのときは私も、ゴルトベルクが歌詞を覚えられないとは知らなかった。チューリッヒでマックス・ヒルツェルと苦労して以来、あれほど必死にピアノで歌手に稽古をつけたことはなかった。彼は最初のステージ・リハーサルでは期待どおりのみごとな声を披露したものの、それ以後はおびえて完全に萎縮してしまった。ドレス・リハーサルでは、こわがって私の顔を見ようとしなかった。私も彼と視線を合わせなかったI彼はたえず私と聴衆から逃げ回り、うろ覚えの歌詞をなんとかごまかそうとした。ほかに打つ手はなく、私たちは彼を交代させた。ぎりぎりになってマンフレット・ユングが呼ばれ、「ジークフリート」と「神々の黄昏」の三回の公演をすべて歌った。
 私の推薦で、その年はピーター・ホールが「指環」全曲を演出した。私はヴィーラント・ワーグナーの抽象的な演出を高く評価するいっぽう、そろそろ変化があってもいい時期だと感じたのだ。現代的かつ自然な演出はどうだろう-ワーグナーの指示を逐一そのままなぞるのではなく、彼の精神を活かすような。ピーターーと舞台美術家のウィリアム・ダッドリーはみごとな舞台を作りあげたが、技術面で問題も多かった。舞台の裏方は大半がチェコ人で、ドイツ語がよくわからず、ましてや英語はだめで、ピーターもウィリアムも意思を伝えるのにかなり苦労した。おかげで制作の進行が遅れ、本番でも吹きだすようなミスが続出した。たとえば「神々の黄昏」では、第二幕の最初で幕がいつまでたっても上がらず、「眠っているのか、ハーゲンよ」は、幕のうしろで歌われた。そのとおり、だれかが眠っていたのだった。
 とはいえ、やはりなんといっても問題は歌手たちだった。現在でも「マイスタージンガー」「トリスタン」「パルジファル」なら、苦労はするが歌手は揃えられるし、「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」も可能だろう。だが「指環」はむりだ-六イロイト音楽祭では全公演、数年先までチケットが売り切れになってはいるが。私は昔はよかったと言うつもりはない。一般的に言って、現在モーツァルトのオペラには昔よりいい歌手がいるし、ヴェルディ、プッチーニその他の作曲家の作品でも、かつてないほど配役に恵まれている。三世代前には、ドミンゴのように柔軟性、音楽性、知性の三拍子揃った歌手などいなかった。そして現在、ペン・ヘップナーからルネ・ペープまで、アンジェラ・ゲオルギューからルネ・フレミングまで、将来を嘱望される若手歌手たちが続々と生まれている。だが「指環」にかんしては、私は意見を変えられない。いまではブリュンヒルデを歌えるドラマチック・ソプラノも、ジークフリートを歌えるワーグナー・テノールも、ウォータンを役柄にふさわしく歌えるバス・バリトンもいない。
 では、ヴォルフガング・ワーグナーはなにをなすべきか。祝祭劇場を閉じるべきだろうか。いや、反対に彼はもっと門戸を開くべきだと私は思う。ワーグナーの意図は、この劇場を自分の作品だけでなくあらゆるドイツ・オペラの中心地にすることだった。ウェーバー、シュトラウス、ヘンツェのオペラや、プフィツナーの「パレストリーナ」、ヒンデミットの「画家マティス」を上演してはどうだろう。ワーグナー信仰を廃止し、ワーグナー自身が望んだように劇場に新しい空気を送り込み、聴衆の若返りを図るほうがいい。現在のようなワーグナー▽不槍の音楽祭は時代遅れであり、頭を切り換える必要があると思う。



P249~

 「マイスタージンガー」の仕事でシカゴにいるあいだに、私は「第O番」も録音した。この作品で、私のブルックナーの交響曲シリーズが完結することになった。すでに書いたとおり、一九五〇年代に、テオドーール・アドルノが私にブルックナーを熱心に薦めた。私がそれまで長たらしいだけだと思っていた作曲家である。だが六〇年代に、ウィーンで私は彼の交響曲第七番、つづいて第八番を録音した。そして空白期間のあと、シカゴで何年かかかって第五番、第九番、第六番、第四番、第三番、第二番を録音した。第O番と第一番に取りかかったのは、そのずっとあとに交響曲全曲を録音すると決めてからだった。私は第O番を若書きの作品だと思っていたので、いちばんあと回しにした。正直に言ってこの曲についてはためらいがあったのだが、ロビンズ・ランドンと話し合って考えが変わった。
「この作品をはぶいてはいけないかな」と私は訊いた。「もちろんだめだ」彼は答えた。「ぜひ入れたほうがいいIこれは傑作だよ。部分的には第一番や第二番よりすぐれているくらいだ」その意見はじつに正しかった。もちろん第O番には未熟なところもあり、ブルックナーの旋律の才能が豊かに開花しているとは言えない。だが、美しい作品であり、規模壮大な古典的交響曲である。オーケストレーションは透明で、作品全体を通して問題となる点はひとつしかない。指揮者はどこで基本的なテンポを変えるべきか敏感に感じとり、リズムの単調さを避ける必要があるのだ。
 第O番の完成から交響曲第一番の着手までわずか一年のあいだに、ブルックナーのオーケストレーションは著しい進歩を遂げ、厚みが増した。第一番の中では、後年の交響曲と同じく、指揮者は金管が目立ちすぎないように気をつけねばならない。要所要所でためらうことなく、ダイナミックスを大きく変える必要がある。金管は独奏部その他の重要な旋律部分では、前面にでる必要があるが、伴奏に回るときは弦や木管の音を圧倒してはならない。優秀なオペラのオーケストラが、歌手たちの声を圧倒しないのと同じように。ブルックナーを演奏する場合、オーケストラが金管アンサンブルのようになってはいけないのだ。もうひとつブルックナーに共通する特徴は、シンメトリーにたいするこだわりである。彼の交響曲では異なる四小節のフレーズが交互に出てきたり、モチーフが何度も繰り返されることがある。モーツァルトとベートーヴェンは、そうした手法はけっしてとらなかった。だがブルックナーは、単調さがある種の偉大さに通じるという、信念あるいは感覚をもっていた――そして、たしかにそのとおりだと言える場合もある。
 交響曲の第三番、第四番、第五番は、いずれも一八七〇年代に書かれ、目覚ましい成長のあとが見られる。ブルックナーは第三番をワーグナーに献呈したいと考え、バイロイトに赴いて許可を願いでた。彼が大作曲家にスコアを見せると、ワーグナーは君の名前はと尋ねた。ブルックナーは、それは第一楽章のトランペット独奏に出てくる四つの音に記されていますと答えた。「アン・トン・ブルック・ナー」(ニーイーイーニの音型)と。ワーグナーはそれが気に入って、献呈を許した。
 そのつぎに書かれた第四番は、ブルックナーの最初の傑作である。第七番とならんで第四番は、作曲家が第二次大戦後に世界中で見直される以前から人気をえていた。理由は明白である。主題が美しく、規模は大きくても超弩級ではない。

 第五番は第三番や第四番にくらべてずっと長大で複雑であり、オーケストレーションはそれまでのブルックナーの交響曲のどれよりも層が厚い。この交響曲では、指揮者はとくにオーケストラの各セクションのバランスに配慮する必要がある。さらに第五番の終楽章には、構成上の問題もつきまとう。ここがとくにむずかしいのは、非常に複雑な対位法的要素があるためと、弦が付点音符の装飾のついた長い部分で鋭いリズムを保たねばならないためだ。私が第五番を十年以上も避けていたのは、この恐ろしくも長大な楽章――モーツァルトの交響曲一曲分よりも長い――のためでもある。ばらばらに崩壊しかねないのだ。

 第六番は謎めいていて、ほかの交響曲とは非常に異なっている。第五番や第七番とならぶ傑作だが、興味深い実験的な要素もある。たとえばきわめて異例な冒頭部。導入部はなく、すぐに主要モチーフが高音部のヴァイオリンで出てくる。だが、おそらくこれは交響曲の中でも最も人気の低い作品で、演奏者も聴き手も容易には馴染めない。

 第七番は私が指揮をした最初のブルックナーであると同時に、最も頻繁に取り上げた作品でもあった。ブルックナー嫌いの人たちでさえ、あらゆる交響曲の中でこれほど美しい冒頭部をもつ作品はないと認めるだろう。チェロとホルンによる主題は、ブルックナーの夢に登場したと言われ、単純でありながら非常に神秘的だ。いい部分はたくさんあるが、とくに決然とした終楽章の構成はすぐれている。
 ブルックナーの旋律にたいする才能が、最高に発揮されているのが第八番だ。だが第九番は、ブルックナーの健康状態が悪化したため終楽章は未完に終わった。それでも残された三つの楽章は、力の衰えをまったく感じさせない。私はウィーンの国立図書館で、この交響曲のオリジナル手稿楽譜を見せてもらった。そのとき図書館員は私に終楽章の下書きの山も見せてくれた。それは感動的な体験だった。下書きを見ると、最初はきれいに三十小節から四十小節ぶん書かれているのだが、しだいに断片的になり、論理性も失われ、最後には一小節ずつになっていた。
 第五番と同じく第九番も、私が十年ほど指揮を控えた美しい作品だ。もう一度早い時期に取り上げてみたいと思う。



P253~

 一九九六年のはじめに、私は初めてチューリッヒでトーンハレ・オーケストラとマーラーの交響曲第十番の第一楽章を演奏し、スペインヘもツアーをおこなった。ブルックナーの交響曲第O番と最近出会って、彼との四十年間にわたる恋をまっとうしたように、マーラー最後の未完の傑作との出会いが、この大作曲家との長きにわたるつきあいを完結させたJ 一九五〇年代からハ○年代にいたる四十年のあいだ、私はマーラーの作品を数多く指揮した。その後、新鮮な視点で見直すために、しばらくマーラーから距離を置く必要性を感じた。いまやその小休止の時期も終わり、これから交響曲第五番をふたたび指揮する予定になっている。
 マーラーは大作曲家であると同時に名指揮者でもあり、彼のスコアに書き込まれたダイナミックスの指示は、ヴェルディを例外に、十九世紀のどの作曲家よりも正確である。これらの指示は守らねばならない。マーラーはメトロノーム標示はあまり使っていないが、確実な言葉でテンポを指定している――「急がずに」とか「引きずらないように」などの用語を含めて――そしてこれらの指示は、マーラーのスタイルに敏感であれば、正確に把握できる。
 交響曲第一番は、標題音楽に近い――夜明けや目覚めなどの場面が頭に浮かぶ。その意味で、ワーグナー的でもある。とくに魅惑的な第一楽章は大きく目を見開いた子どもを思わせ、民謡や鳥のさえずりなどを暗示する部分がある。交響曲第二番はベートーヴェンを思わせる要素が強い。直接的でドラマチックであり、その後の交響曲のような苛まれた印象はない。第三番、第六番、第七番などよりも、はるかに明確に語りかけてくる。指揮者にとっては、終楽章で舞台裏にいる楽隊と呼吸を合わせるのはむずかしく、無伴奏の合唱は危険が多い。第二番の構成は第一番よりも重いが、第三番はさらに重量感がある。第四番はもっと軽く短く、性格的には第一番に近い。そしてその後のマーラー作品は、大きなクレッシェンドを迎える。第五番、第六番、第七番、第八番と作品を追うごとに規模は壮大になる。私が第六番の第一楽章でとくに好きなのは、序奏はわずか五小節だけで、ただちに第一主題が始まる点だ――そしてこの五小節にもすでに重要な主題的要素が含まれている。
 私はマーラーの交響曲の中で、第七番はあまり指揮しなかった。これは不思議な作品だ。とくに第一楽章は悪夢のようであり、狂気に似た印象を与える。もうコ度調べ直して演奏してみたい。第八番の中で、マーラーはたびたび拍子を変えている。第二部の最後には、シェーンベルクとベルクを強く予感させるものがある。第八番は、マーラー最後の十九世紀的作品だと思う。指揮者にとって最大の問題は、その巨大さである。ある意味で、第八番は視覚的要素が想像力にまかされる大作オペラのようなものだ。この作品を含む巨大な合唱つき管弦楽作品については、オペラ指揮者のほうがはるかに演奏では有利と言えるだろう。

 「大地の歌」と交響曲第九番によって、マーラーは十九世紀を飛び越えて二十世紀へと入った。「大地の歌」の中間部は、ベートーヴェン的あるいはワーグナー的というより、シューベルト的なマーラーである。壮大な作品ではなく、最後の曲も長くはあるがリート的だ。最後の「永遠に、永遠に」の部分では、作曲家がこの世に告げている別れが切々と伝わってくる。

 交響曲第九番には、調性がないと言ってもいい部分がある。ホルンとハープが中心となる冒頭部につづいて、マーラーの中でも最高に美しい旋律が聴かれる。第九番は驚くべき作品だ。構成的には、初期の交響曲の単純さに戻っているが、技巧的には猛烈な難曲で、演奏には優秀なオーケストラが必要になる。私はこの作品を一九五九年にフランクフルトで初めて指揮したが、一九八八年にシカゴ交響楽団とオーストラリア・ツアーで演奏して以来、取り上げていない。この本のためにスコアを見直してみて、もう一度指揮してみたい欲望に駆られた。「大地の歌」も素晴らしいが、第九番は終始一貫してみごとであり、私にとってはマーラーの最高傑作だ。

 交響曲第十番の第一楽章を演奏して、作品の「完全版」を指揮してみたいと思うようになった。マーラーが完成しオーケストレーションをつけたのは第一楽章のみだが、それだけでも二十分ほどの長さになる。この楽章にあふれる旋律は、心が張り裂けそうになるほど美しい。これが書かれたのは、彼の病がすでに重く、妻のアルマから建築家ヴァルター・グロピウスとの情事を打ち明けられたあとだった。マーラーの悲痛な叫びが、延々とつづく第一ヴァイオリンに表わされている。長い第二、第三楽章はマーラーの手になる下書きのみが残っている。そして第四楽章はまったく書かれなかった。イギリスの音楽学者ドレイク・クックが草稿をもとに交響曲を初めて完成させたが、私はその版を使ったことがない。マーラーの特徴である対位法的な要素が欠けていると思うからだ。第十番については、目下準備中のものを含めてさらに三つの版がある。一九九九年の夏に、私は入手できる版をつなぎ合わせ、自分の考えも加えて、この交響曲にひとつの解決を与えてみたい。

 しかし、マーラーを敬愛しながらも、私はある時点でこれらの巨大な交響曲群からしばらくのあいだ遠ざかり、モーツァルトの奇蹟の世界に戻ろうと考えた。マーラーが、現在のように偶像視されるようになったのも、偶然ではない。演奏の質が高かろうと低かろうと、マーラーの交響曲であればかならずホールは満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった、現代社会の特徴が表わされているからだろう。マーラーはかつて「自分の時代がやがてやってくる」と言った。だが、自分の音楽がこれほど成功しようとは、想像もしなかったにちがいない。
 十九世紀の終わりから二十世紀のはじめに書かれた、マーラーの交響曲を含む数々の巨大な管弦楽作品が聴衆に受け入れられたのちに、多くの作曲家が作品の規模も楽器編成も縮小して、ミニマリズムの傾向をとるようになった理由は、容易に理解できる。私はハイドンやモーツァルトのような、初期のミニマリストたちのほうが好きだ。現代のミニマリストにくらべて、彼らの音楽は単純だが充実している。ハイドンが「天地創造」の最初の数ページでなし遂げたものをみれば、それがわかる。彼は混沌と苦痛の中から世界が創りあげられたようすを表現した。「そして、光があった」という箇所の、最後のフォルテによるハ長調の和音は――巧みに演奏された場合――ワーグナー、ブルックナー、マーラーの強烈な和音も及ばないほど、力強い。


P290~

 バルトークのメトロノーム標示はきちんと守られるべきだ。ハンガリー音楽の語法に慣れている私たちは、この指示に従えば間違いないことが感覚的にわかる。シカゴで「管弦楽のための協奏曲」を録音していたとき、私はメトロノーム標示を忠実に守ることにしたIただし問題は、「対の遊び」と題された第二楽章で、四分音符で74という指定はきわめて遅い。私がそのテンポでリハーサルを始めると、奏者たちがけげんな顔つきをした。「バルトークはこう指定している」私は言った。「だから今回だけはそのとおりやってみたいんだ」
「マエストロ、私のパート譜には94と指示があります」首席打楽器奏者のゴードン・ピーターズが言った。彼からその楽譜を見せられたとき、私は自分の目を疑った。国会図書館に行ってオリジナルの草稿を調べると、94のほうが正しいとわかった。74はミスプリントで、そのまま五十年以上重版されていたのだ。94の指示だとこの楽章は一般に演奏されているより速めになるが、自然で流れるようなテンポが生まれる――私はそのように演奏した。ダイナミックスの場合も、メトロノーム記号と同様にバルトークの指定はいつも完璧だから、確実に守る必要がある。



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