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2014年12月31日水曜日

靖国神社で焼身自殺を図ったけど火傷は全くしていません?

槍ヶ岳西側の飛騨沢で夫婦が遭難、救助を要請
2014年12月31日 16時30分 読売新聞
 31日午前9時30分頃、岐阜県高山市奥飛騨温泉郷神坂の北アルプス・槍ヶ岳(3180メートル)の西側にある飛騨沢(2400メートル)付近で、三重県桑名市の60歳代夫婦から「降雪で動けなくなった」と県警高山署に携帯電話で連絡があった。
 発表によると、夫婦は27日に入山し、30日に下山予定だった。ともにけがはなく、1月2日まで3日分の食料は持っているという。同署は約1キロ離れた槍平小屋を目指して下山するよう指示したが、その後は連絡は取れていないという。
 現場は雪による悪天候でヘリコプターを飛ばすことが出来ない状況。同署は天候の回復を待って救助に向かうことにしている。


筋弛緩剤を誤投与、患者死亡…薬剤師ら取り違え
2014年12月31日 22時14分 読売新聞
 大阪府立急性期・総合医療センター(大阪市住吉区)は31日、がん治療のため入院していた60歳代の男性に誤って筋弛緩しかん剤を投与し、男性が死亡したと発表した。
 同センターは、男性の家族に経緯を説明して謝罪するとともに、大阪府警住吉署に報告した。
 発表によると、29日朝、男性に発熱などの症状があり、主治医が抗菌薬の緊急投与を指示。院内の薬剤師が、誤って筋弛緩剤を届けた。投薬する際、看護師2人が処方箋の内容と薬が一致するか確認する手順になっていたが、十分確認しないまま点滴で投与した。

 投与開始から約2時間後、薬剤師が別の患者用の抗菌薬を取り出そうとした際に間違いに気づいたが、男性は既に心肺停止状態だった。死因は、筋弛緩剤投与による呼吸停止とみられる。


靖国神社侵入男を現行犯逮捕…同時刻に不審火も
2014年12月31日 21時50分 読売新聞
 東京都千代田区の靖国神社に侵入したとして、警視庁麹町署は31日、自称東京都日野市の無職の男(25)を建造物侵入容疑で現行犯逮捕した。
 同署幹部によると、男は同日午後5時頃、靖国神社境内に侵入した疑い。
 同神社では同じ時刻に、本殿脇にある「鎮霊社」のひさしや壁の一部を焼く不審火があり、消火にあたった同神社の職員が、近くにいた男を取り押さえた。
 男は調べに対し、「靖国神社で焼身自殺をしようと思った」と供述。現場付近から灯油が入っていたとみられるペットボトルが4、5本見つかっており、同署は非現住建造物等放火容疑でも事情を聞いている。
▲:どうして名前を出さないのだろう? また「精神疾患無罪」? わざわざ神社で焼身自殺? 自分に灯油を掛けているのだろうか、火傷を負っているという話にはなっていないようだけど。


2014.12.31 23:03 産経新聞
「靖国で自殺すれば葬ってもらえる」建造物侵入容疑で逮捕の男、震えながら「ごめんなさい」 警視庁、放火容疑でも立件へ
 31日午後5時ごろ、東京都千代田区九段北の靖国神社境内で発生した火災で、警視庁麹町署に建造物侵入容疑で現行犯逮捕された男が調べに対し、「靖国神社で焼身自殺すれば葬ってもらえると思った」と供述していることが分かった。麹町署は放火容疑でも男を立件する方針。
 麹町署によると、逮捕されたのは自称・東京都日野市の無職男(25)。「鎮霊社を燃やして焼身自殺すれば靖国神社に葬ってもらえると思った。ごめんなさい」と供述している。同署は身元確認を急ぐとともに、刑事責任能力の有無を調べている。鎮霊社のそばには、灯油のような油の入ったペットボトル4個やマッチ、カバンが落ちていたという。

 出火した「鎮霊社」は戦死者を慰霊する施設で、屋根などが焼けた。けが人はなかった。宮司らがそばでうずくまって震えているスーツ姿の男を発見し、身柄を確保した。



上田文雄の12年にわたる愚劣な札幌市政を記念する作品


<上田文雄>
と命名すべき
札幌市が108万円で購入し
大通公園の西端に
永遠に
「展示するらしい芸術作品」



札幌国際芸術祭出品の巨石「一石を投じる」 市の購入・移設に疑問符
(12/31 13:01、12/31 13:30 更新) 北海道新聞
 この夏、道庁赤れんが庁舎前の札幌市北3条広場に置かれた巨石を覚えていますか。現代アート作家、島袋(しまぶく)道浩さん(45)=ベルリン在住=の「一石を投じる」という札幌国際芸術祭の作品。題名の通り、市民にさまざまな反応を呼び起こしましたが、札幌市が買い取り、中央区大通西13の市資料館前に移設したことについて、事前に、十分な説明や議論があったろうか、税金を使ったのに、いくらだったのかなど、いくつかの疑問が残ったままです。2014年が終わる前に、これらの疑問を取材しました。この報告を通じて、記者も一石を投じられたら、と願います。(編集委員 村山健)
 ■なぜこの作品 「残して」発言発端
 市によると、214件の参加作品のうち、どれを購入すべきか、市民の意見を聴かなかった。市議会にも諮らなかった。議決が必要なのは、条例で8千万円以上の物と定められており、作品はこれに達していないという理由からだ。
 議会には、買うことを決めた後の10月9日、経済委員会の委員11人に、継続展示と移設場所をファクスで知らせただけだった。
 購入の直接のきっかけは、芸術祭の最終日、9月28日に市役所で開いたトークイベントだという。参加者の一人がぜひ札幌に残してほしいと発言し、賛同の拍手が起きた。上田文雄市長も同様の考えを示した。
 市長は10月10日の定例会見で、「展示を継続してほしいという声がたくさん寄せられた」と述べたが、市として調査したわけではない。
 逆に、市の市民の声を聞く課には、購入に反対、資料館前では景観を損ねる、広島県の土石流災害を連想させる、といった否定的な意見が計8件届いている。
 10月30日の市議会決算特別委員会でも、「一部の人の主観で置くことにしたのはどうなのか」と異論が出た。

 ■なぜ資料館前 芸術祭拠点を計画
 移設場所についても、市は市民に聴いていない。
 市は芸術祭閉幕後の10月1日、島袋さんと市内を調べ、市資料館の前庭に決めたという。市の担当者は「民有地や規制がある所には置けない。あの場所は作者自身が選んだ」と話す。
 島袋さんはメールによる記者の問い合わせに、こう答えた。
 「今後、芸術祭の準備室のような機能を持たせようとしていると教えられた資料館は建物としても、道庁と同じような近代を象徴する場所ですし、何よりも次回の芸術祭の開催のための、まさにシンボルとして、この作品が新しい『仕事』をしてくれると思いました」
 確かに、市は資料館を芸術祭の拠点として整備したいと考えている。そのアイデアも募り、応募作131点のうち、副賞100万円の最優秀作を発表していた。資料館前を移設先に決める3日前のことだ。

 ■価格どう算定 100万円、作者へ提示
 市が買った値段は消費税込みで108万円だった。インターネット上の市の入札情報サービスで公開されている。この価格はどのように算定されたのか。
 市の担当部によると、市が100万円を提示し、島袋さんが応じた。市内部の手続きの過程では、「幸太郎石」と呼ばれる石そのものの市場価格は200万円、作品の評価額が札幌芸術の森美術館長による調査で500万円という額が示されたが、結局島袋さんへの提示額に落ち着いた。
 ただ、それに至る事情があったという。
 市はもともと、芸術祭の記念になる作品を残したい、という意向を持っていた。この作品しかない、との見方も期間中に強まったが、すぐに購入しなければ、いったん移動するのに五、六十万円かかる。市が用意できる資金も限られている。
 「そうしたことを島袋さんに説明し、理解してもらった」と担当者は言う。
 芸術祭72日間の石のリース料が、運搬費を含めて約120万円だったから、それより安く買ったことになる。

 ■作品購入 横浜、福岡では専門家が審議 条例で公正性保つ
 札幌国際芸術祭と同様に現代アートを扱う横浜トリエンナーレ(原則3年に1回開催)では、これまで5回のうち、前回2011年の作品計7点を総額約1428万円で購入した。買ったのは横浜市の横浜美術館。
 横浜市によると、市の「美術資料収集審査委員会」がどの作品を買うかを検討し、下部組織の「美術資料価額評価委員会」が買い取る値段を決める。
 いずれも、市長が委嘱した大学の研究者や美術評論家らの専門家で構成され、市役所の「身内」は委員になれない。結果は議会に説明、報告している。
 市の担当者は「条例で透明性と公正性を保つ手続きを定めている」と言う。
 福岡アジア美術トリエンナーレでも、福岡市の福岡アジア美術館が、過去5回の作品計249点を総額1億6千万円余りで買った。
 同美術館によると、やはり外部の専門家4人でつくる「美術資料収集審査会議」が購入作品を選定し、価格も調査、審議して決めてきた。市議会には、購入点数と総額を知らせているという。

▲:上田文雄の愚劣な12年間の札幌市政(たとえば生活保護申請姉妹を死に追いやった事件とかその他多数)を記念するものとして、永遠に遺すといい。作品名も、そのものズバリ、「上田文雄」と改称するといい。
 芸術の森美術館の館長は、佐藤友哉。この人、旭川美術館の元・学芸課課長、というから道庁官僚からの天下りで、現在は札幌市の職員、ということは上田文雄の部下。身内の人間が都合のいい「算定」をしたと勘繰られても致し方ないだろう。そもそも、美術館学芸課長とか美術館の館長が芸術作品(石の)を500万円と、どうやって”鑑定”したというのだろうか?
 最近明らかになったのは官製談合。これも、全期間、上田文雄市政の中で行われていた”犯罪”。

● 札幌市で官製談合か アイヌ文化パンフ、業者に入札情報漏らす
(12/25 17:13、12/26 00:32 更新) 北海道新聞
 札幌市は25日、同市市民まちづくり局アイヌ施策課が2009~14年度に発注したパンフレットなどの作製業務をめぐり、同課の複数の職員が中央区内の印刷出版業者に入札などで有利になる情報を漏らし、受注させていたとする内部調査結果を発表した。同期間のこの業者との契約は12件、計700万円。市は組織的な官製談合があった可能性もあるとし、関係者の処分を検討しているほか、道警と刑事告発を含めた対応を協議している。
 市によると、この業者は09年度以降、発注がなかった12年度を除く5年間、「市アイヌ文化交流センター紹介パンフレット作製業務」の指名見積もり合わせ(3社参加)や特命随意契約に参加し、いずれも受注。09~13年度の「人権啓発用ノート作製業務」の指名競争入札(3~5社)と、14年度の「アイヌアートモニュメント紹介リーフレット制作業務」の指名見積もり合わせ(3社)もすべて受注した。08年度以前は記録が残っていないという。

 市は10月下旬、市議から「同じ業者との契約が続いているのは不自然だ」との指摘を受け、歴代の課長らを聞き取り調査した。

▲:腐敗市政を後世に語り継ぐよすがとして、バカげたあの作品を「上田文雄」と命名し、教訓として遺すのがいいと思う。






アメリカ開業医はつらいよ! 二木良夫・著 2009 を読む



アメリカ開業医はつらいよ! 二木良夫・著 2009
P138~
 私かアラバマで研修をしている時に、アメリカ人のチーフレジデントと話をした時のことである。彼はこう言った。
「YOSHI、残念ながら自分の国アメリカは、君の国日本と違って、年寄りを入切にしない。自分か年を取った時、子供に面倒をみてもらおうなんて期待してはいけない。自分たちが一所懸命働くのは、将来いい老人ホームに入るためだ」
 私にとってはびっくりする意見であった。しかしアメリカの老人ホームは非常に高い。たいしたことのない普通の老人ホームでも、人所料が月20万円はざらである。[1ドル90円換算で] ハワイの病院も看護師は不足している、そのため、フィリピン人の看護師がとても多い。フィリピン国内では給料のいい仕事がないため、多くの看護師は海外へ行く。今やフィリピンは看護師の輸出国である。[ハワイで開業していた]私の事務員はフィリピン人で、その多くの友人が老人ホームで働いている。彼女の話では、英語の不自由な日本の老人たちに対する扱いはひどいものらしい。英語が不自由なため、聞こえないふりをしたり、英語でひどいことをこれみよがしに言ったりすることもあるそうだと、彼女は憤慨していた。保険会社は老人ホーム保険を積極的に勧める。自分か交通事故で死ぬ確率よりも、老人ホームに入る確率のほうがはるかに高いのだからと言って。しかしその保険料が高い。もちろん保険加入時の年齢、種類によるであろうが、私の年齢で月5万円くらいが相場であった。それでも将来老人ホームに入った時のことを考えたら、はるかにお得だそうである。
 アメリカでは引退した時点で、裕福な偉らしをしている人は人口の1パーセント、裕福ではないがそれなりにやっていける人が3、4パーセント、子供の援助を受けている人が5バーセント、何らかの形で福祉の世話になっている人が90パーセントという話を聞いたことがある。90パーセントの人たちもちゃんと仕事をもって、引退まで普通に働いていた人たちである。少し信じがたいが、自分もしくは家族が健康を害して人退院を繰り返したら、すぐに破産だなと思う。老後、異国で暮らすのは容易ではない。私の友人が保険のセールスをしていた。彼女は日本人で、私に老人ホーム保険への加入を熱心に勧めた。帰国の予定を話したところ、彼女は「日本に帰ることができるのなら、そのほうがいいです。日本はずっと安い費用で老人介護を受けられますから」と言って、帰国を喜んでくれた。ハワイには、アメリカ人と結婚して子供ができたが、数年して離婚、子供が大きくなって英語しか話せないため、日本に帰りたくても帰れない人がたくさんいる。帰ることができる時に、日本に帰ることに決めた。

▲:著者は1984年(ということは卒業年次は私と同じ)に新潟大学を卒業し、沖縄県立中部病院を経てアメリカ留学。ハーバードなどで小児科医として研修し、ピッツバーグやホノルルで開業し、現在は沖縄の病院の小児科部長をしている。
 年末の部屋掃除を少ししていたら、どこからか段ボール箱が出てきて、中に昔の本が入っていた。上の、アメリカ開業医はつらいよ、という本もその一つ。読みやすいので、ついつい読んでしまった――そのため肝心の掃除は途中放棄となってしまった。
 その段ボール箱の中に、以前探していた・そして見つからなかった、Aslanの"No God But God"が入っていた。やれやれ、あんなに探して見つからなかったのに、こんなところに入っていたのか。そのうち、読むつもりだけれども、今は先に読まなければならない本が幾つかある。

 昔、ハワイ4島を駆け足で見物したことがある。
 ホノルルからカウアイ島に向かう飛行機に、フィリピン人一家と一緒になったのだが、彼らの騒々しいことといったら、中国本土人以上だったような気がする。とにかく、ウルサイ。カウアイ島で一日観光に付いてくれた日系女性に訊くと(あの頃は砂糖価格の暴落でカウアイ島経済がひどいことになっていた)、フィリピン人がどんどん増えているということだった、特にカウアイ島のような人気のない島では。

作成途中


年末雑記 秋元才加 倉本聰




 29日は登山仲間と一緒に山スキーで大雪山に登る。途中で天候が急に悪くなってきたので、(年寄は)無理をせずに下山した。
 その日は旭川市内のホテルに泊まる。最上階に大浴場のあるホテル。台湾からの客が多かった。中国本土の人間と台湾人は容易に判別することができる。中国本土の中国人が大声を上げて常に騒がしいのに比して、台湾人は日本人と区別つかないほど静かである。ただし、広東語のような言語を使っているので、やっと台湾人であると区別できる。中国本土の中国人は外国では無礼にふるまうことを教育されているようだけれども(粗野な大国意識を剥きだしにしている)、台湾人は殆どの人が礼儀正しい。
 この時期、旭川までやってくる台湾人は大抵金持ちなのだろう、朝食の会場でもいい身なりをしていた、少なくとも私以上には。
 台湾を旅行して歩いたときには(団体ツアーだったけれども)、どこのホテルでも驚くほど充実した内容の朝食ビュッフェを出された。しかしその旭川のホテルの朝食ビュッフェはとても「しょぼくて」、何か恥ずかしいような気がしてしまった。

 29日の夜には、ひとりで、雑誌『HO!』に取り上げられていた蕎麦屋に行った。



 上の写真の右が雑誌に載っているもので、左は私がiPhoneで撮ったもの。雑誌に載っている写真ではとても美味しそうな印象を受けるのだけれども、どうして自分の目の前に現れてきた同じ店の同じ蕎麦が美味しそうには見えなかったのかは、判らない。不味いわけではなく、普通の蕎麦だった。
 これなどはいい方で、B級とはいえ、このグルメ雑誌には時々「騙される」ことがある。それは食べログの記事と同じ。一度、森町のお寿司屋さんに行ったことがある。この雑誌で紹介されていて、店の主人や従業員がいい笑顔で映っていた。ところが、座敷のテーブルの上にあった醤油入れから小皿に醤油を入れると妙に濁っていることに私は気づいた。醤油入れの蓋を持ち上げて中を見てみると、醤油の表面には汚い色の黴がびっしりと増殖していた。この、『HO!』で良い店として紹介され・主人も店員もすがすがしい笑顔の写真で紹介されているところも、内情は、テーブルの醤油をカビだらけにしているダラシナイ店なのである。グルメ雑誌を、だから、完全に信じ込んではいけない。ついでに、鮨も何の評価もできないしなものだった。この雑誌の道南特集号では、森町の寿司屋は何軒も紹介されているので、特定はできないだろう。

 久しぶりに酒を飲んだので8時前には眠ってしまい、起きたのは朝の3時頃。
 もう眠れないので、ホテルの部屋でテレビを見る。NHKの衛星放送で、今年放送したドキュメンタリー(コリアンNHKではなくて海外のテレビ局などが制作した「まともなもの」)を何本か再放送して、ゲストと陰気な顔をした司会者でお喋りをしていた。
 ゲストは、ピースという芸人コンビの「熟女殺しではないほう」の男と、秋元才加。この、元AKBの女性は、劇団鼻毛ひとりと一緒に、ブータン国王夫妻を侮辱したことで有名な阿呆である。








 この秋元才加というタレントの母親はフィリピン人で、父親は無職の日本人(少なくとも国籍はそうらしい)ということである。家庭環境については本人が「話のネタ」にしている。

http://blog.livedoor.jp/aoba_f/archives/36714248.html



 30日、旭川から札幌への帰り、途中で高速を下りて美唄の『白樺茶屋』で鶏飯とラーメンを食べた。ここで一句。


年の瀬に シラカバ食べて 安堵する


 これは、この一年、仙台市民のようにコリアンによる「日本人狩り」に遭うようなこともなく、無事に過ごせたことを思い返してホッと安堵の息をつきながら美味しい食事を取ることができる幸せを句にしたものである。来年も、コリアン暴力団に襲われることなく無事に生きていけますようにという祈りも含まれた句である。

参照:グーグル<仙台 日本人狩り>
https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E4%BB%99%E5%8F%B0+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%8B%A9%E3%82%8A




 31日朝は、環状線沿いにある『みよしの』に、餃子カレーセットを食べに行った。ここで一句。

おおみそか ミヨシノ食べて 安堵する

 これは、この一年、仙台市民のようにコリアンによる「日本人狩り」に遭うようなこともなく、無事に過ごせたことを思い返してホッと安堵の息をつきながら美味しい食事を取ることができる幸せを句にしたものである。来年も、コリアン暴力団に襲われることなく無事に生きていけますようにという祈りも含まれた句である。



個人的感想だけど、井上陽水の素顔って、張本勲にそっくりだと思う。
北星学園は、倉本聰と一緒に、パウロが熟慮を重ねた「キリストの再臨を待ち望みながら、性快楽の誘惑といかに日々闘ってゆくか」について、徹底的に考えてみるといい。リベンジポルノで姪を喪った倉本聰も、深い洞察を得たかもしれない。

作成途中
















また神社が全焼 反日無罪のコリアン

幕末の志士に影響、尊皇思想家まつる神社全焼
2014年12月31日 07時34分 読売新聞
 30日午後8時頃、群馬県太田市本町の高山神社から出火、本殿と拝殿の計約250平方メートルを全焼した。
 けが人はなかった。太田署が出火原因を調べている。
 高山神社のホームページによると、同神社は同市出身の江戸時代の尊皇思想家・高山彦九郎をまつるため、明治時代初期に創建された。高山は、吉田松陰や高杉晋作ら幕末の志士たちに大きな影響を与えたとされる。
 同市では10月21日にも、新田神社の授与所が全焼する火災があった。

▲:どうしてこんなに「頻繁に」神社が焼けるのだろう?
  放火なのだろうか?
  富士山に野糞したり靖国神社に小便を掛ける連中と関係してはいないのだろうか?


韓国は反日団体の「暴力行為」、なぜ取り締まらない 外務次官の車立ち往生、そして産経前ソウル支局長の車にも

2014/12/30 18:12 JCAST
   韓国・ソウルで、日韓外務次官級の協議のため韓国外交部に入ろうとした外務省の斎木昭隆外務次官らが乗った車両に、反日的な市民団体がこれを阻止しようと立ちふさがる騒動が起こった。
   斎木事務次官は、2015年に迎える日韓国交正常化50年を前に、韓国外交部の趙太庸(チョ・テヨン)第1次官と会談し、冷え込んでいる日韓関係の改善の糸口を探るため、ソウルを訪れていた。
日韓首脳会談の「地ならし」のはずが・・・
   騒動があったのは、2014年12月29日。日韓の外務次官協議が開かれる韓国外交部に、斎木事務次官ら日本側の出席者を乗せた車両が入ろうとしたときだった。
   市民団体のメンバーは約25人。外交部の入り口付近では協議前からデモを行っていて、斎木事務次官が到着した際には、「日本政府は集団的自衛権行使をやめろ」「韓国国民の叫びを聞け」などと叫びながら、車両を取り囲んだ。
   さらには、歴史認識の問題で日本に抗議するプラカードを車両のボンネットに押しつけたり寝そべったり、外交部の正門にもたれかかったり地面に寝転んだりして、車両の進入を阻止。そのため、車両が一たん引き返すなどして協議の開始が50分遅れた。
   この騒動について、日本側は韓国政府に抗議。趙太庸第1次官が斎木事務次官に対して遺憾の意を伝えたという。
   そもそも、今回の外務次官級の協議は2015年の日韓国交正常化50年を前に、こじれた日韓関係の改善策を探り、また安倍晋三首相と朴槿恵(パク・クネ)大統領の日韓首脳会談の早期実現への「地ならし」が目的だったはず。
   それにもかかわらず、車両を止めて協議させないようにする韓国側の妨害行為にインターネットでは、
「いいけげんにしろや。どんだけ無法地帯なんだよ」
「もう日本からわざわざ行かなくていいよ。こっちは話すことないし」

「外交関係者なんだから、韓国の警察とかがふつうに付いてるはずだよな。それでこれって凄いな」

車両を包囲しても「容疑なし」
   一方、こうした騒ぎにも、韓国メディアは外務事務次官級の協議があったことを淡々と伝えるにとどまっている。
   2014年12月30日付の聯合ニュースは「韓日次官協議『来年が両国関係の転換点となるよう努力』」の見出しで、趙太庸第1次官と斎木昭隆事務次官の協議では、「両国が歩んできた過去50年の歴史を回顧し、これからの韓日関係をどのように築いていくかについて意見交換が行われた」と報じ、慰安婦問題については「解決に関する新たな論議は行われなかった」と伝えている。
   反日的な市民団体が斎木事務次官を乗せた車両の進路を妨害したことは、記述が見られない。
   とはいえ、こうした騒動はつい最近もあった。韓国の朴槿恵大統領の名誉を傷つける記事を書いたとして在宅起訴された産経新聞前ソウル支局長の初公判後に、韓国の右翼団体のメンバーが前支局長の車両を取り囲み、叫び声をあげて謝罪を要求。卵を投げつけたり、ボンネットに寝転んだり。とくに制止するようすもなく、約10分間にわたってやりたい放題だった。
   その後、前ソウル支局長がこの右翼団体のメンバーを監禁、脅迫などで告訴したが、聯合ニュース(12月24日付)によると、韓国警察は車両を包囲したメンバーを「容疑なし」との意見を付けて送検したという。
   警察関係者が、「周辺に警察や取材陣らが多数いたため、いつでも助けを求められる状況だった」と説明した、としている。
インターネットには、
「卵を投げつけたり、車両のボンネットに寝転んだり、進路を阻止して運転の邪魔をする行為が罪にならないようでは、無法行為がまん延する」
との声は少なくない。
   そればかりか、今回の騒動も、
「有罪にならないとわかってやってんだ。卑劣な奴らだな」

と、産経前ソウル支局長の騒動が罪に問われなかったことで増長したのではないか、との見方もある。




2014年12月28日日曜日

バター犬変態エロ爺・日高晤郎と衆議院議員・前田一男




2014年12月27日午前8時台の放送
 バター犬変態エロ爺日高晤郎のトークショーに、衆議院議員の前田一男がゲストとして登場し、議員を前にして、ずーっとバタ犬晤郎が、番組のアシスタントに説教するような口調で説教していた。
 議員の言葉の使いかたの下手さ加減をあげつらって、

変態晤郎:言葉って命かかってますから、喋ることで[私は]メシを食ってるんだから責任もたなきゃなりません[責任持ってるから私は]信頼されてるんです

 2005年に同志社大学学生によって塾に通っていた小学6年の女の子が殺されたとき、何の証拠もないのに「女の子ってのは残酷なこと言いますからね、何か言ったにちがいないです」と、あたかも殺された女子に責任がある、殺されても仕方ないと解釈されかねないような誹謗中傷をしたこのクズが、「言葉に責任を持つ」って、本当に冗談は顔だけにしろよ変態爺、と、ラジオに向かって思わず私は呟いてしまった。
 この後も、バター犬変態爺は、小渕優子がどうだこうだと非難したあと、

変態晤郎:安倍さんは[こうした大切なことを]知りませんよ、おぼっちゃんだから、アソウくんは……

 自民党総裁や閣僚をバカにし続ける変態爺の前で、「はい、はい、ええそうです」と繰り返す前田一男って、大丈夫なのかと思った。函館地方が選挙区で、元は松前町長、あの例の町立病院ドタバタの時に調整に乗り出した人物である。
 バター犬変態爺は、国会議員が「なーんで議論もろくにできない、議論の仕方もわからないバカばっかりなの」と息巻いたあと、こう続ける。

バター犬変態爺日高晤郎:それともう、片山さつきなんかテレビに出さない方がいいんじゃないの。
前田一男:ええ、はい。
バター犬変態爺日高晤郎:あれ(片山)出す資格がないでしょ。おまえ人に意見いってる場合か、でしょ。どの程度マスコミに叩かれてそれが正論だったら反省してるんだろう。(片山は)してますか?
前田一男:さぁ、どうでしょうか。

 小渕優子にも片山さつきにも、それぞれ人は思うところがあるだろうし、変態晤郎が口汚く罵るのはいつものことなので驚きはしない。STVラジオがこうしたゲス芸人を使っているのだから、責任はSTVという会社にあるのだから、それは今はどうでもいい。
 私が驚いたのは、自民党衆議院議員前田一男という男である。
 変態爺が自民党や自民党の「仲間」を口汚く誹謗中傷し続けているのを、はいはい・ええ・そうですね、と抗議することなど全くなく、そのまま頷いているのだ。
 呆れた。つまり、この変態エロ爺と一緒になって自分の党の議員を誹謗していることに等しいと気付かないのだろうか?
 この国会議員、北大の工学部を卒業して伊藤忠に入社。その後北海道庁に勤務し、出身地である松前町の町長選に出て当選、そして国会議員になっている。
 経歴はマトモなのに(前川恵とかいうのとは全く違う)、バター犬変態爺・殺された少女を誹謗中傷するゲス野郎が、自分の党と党員を口汚く罵倒するのを(それを流しているのがSTVだが)、さようでさようで、と、合いの手を入れているのである。
 卑屈なまでにこのバター犬変態爺に媚びる前田一男の放送を、函館地方の人たちはどんな思いで耳にしたのだろう。
 そんなことを思った。





2014年12月27日土曜日

イメージは東洋英和女学院でホステス経由アナウンサー

内定取り消し訴訟 日テレが和解案提示…原告側「希望の形で解決も」
スポニチアネックス 12月27日(土)6時26分配信
 東京・銀座のホステスのアルバイト経験を理由に、日本テレビのアナウンサー職内定を取り消されたのは不当として、東洋英和女学院大4年生の笹崎里菜さん(22)が同社に地位確認を求めた民事訴訟で26日、東京地裁で和解勧告が行われた。
 双方の代理人弁護士が出席、非公開で1時間にわたり実施された。原告側の代理人は協議後、報道陣に対応し「ぼくらの希望する形で解決するかもしれません」と話し、内定取り消し撤回に向け手応えを感じているようだった。詳しい内容については「話せない」としながらも、同社から和解案の提示があったことを明言した。
 第2回口頭弁論は、来年1月15日に予定通り行われる。日本テレビ広報・IR部は「本件は民事裁判が進行中の事案であり、コメントは控えさせていただきます」とした。


三股疑惑も浮上!変態不倫報じられたNHKお天気キャスター岡村真美子がブログ閉鎖
東スポWeb 12月26日(金)12時8分配信
 発売中の週刊文春に“変態ダブル不倫”と報じられた人気お天気キャスターの岡村真美子(30)の公式ブログが閉鎖されたことが26日分かった。
 岡村は公式ブログ「みゃみろ~ぐ」を今月4日まで更新していたが、26日に入り同ブログを閉鎖した。前日にはレギュラー出演していたNHK「ニュース7」を降板。同番組のホームページからプロフィールが削除されていた。
 岡村キャスターは清純で愛らしいルックスから「魔法少女」「7時28分の妹」で人気を集めていたが、今週発売の「週刊文春」にTBS「ひるおび」の気象予報士・佐藤大介氏(41)と気象庁関係者とのW不倫を報じられ、衝撃を与えた。佐藤氏も報道を受け「ひるおび」を降板している。
 さらに岡村キャスターには三股疑惑も浮上している。実は今年10月に写真週刊誌「フライデー」に2人との不倫相手とは別の音楽教師とのホテルデートを激写されていたのだ。
 報道を合わせるとデートの時期は不倫の時期とも重なる。もし三股が事実となれば…。岡村キャスターに訪れた“冬の嵐”は当分収まりそうにない。

▲:東洋英和の笹崎里菜という女性が日本テレビの画面にアナウンサーとして登場するようになったら、これからアナウンサー希望の女子大生はみんな高級ホステスになって、放送局の幹部と「接点を持つ」ことに懸命になるだろう。

PS
http://www.cyzowoman.com/2015/01/post_14883.html
日テレ“逆転採用アナ”笹崎里菜さん、未成年飲酒疑惑!
 「ネガティブ情報が芋づる式に」の声
【関連ワード】女子アナウンサー日本テレビ笹崎里菜芸能ウラ情報

2015.01.26
 クラブでのアルバイト歴を理由に日本テレビの内定を取り消され、採用を求めた民事訴訟を起こした笹崎里菜さん。1月7日に行われた和解協議では、一転して今年4月の入社が認められることとなったが、1月26日発売の「週刊ポスト」(講談社)では、笹崎さんの「未成年飲酒疑惑」やネット上に「セクシー写真」が流出していたことが報じられ、波紋を呼んでいる。
 現在、東洋英和女学院大学4年の笹崎さん。日テレからの内定をもらって研修を受けていた際、人事担当者に東京・銀座のクラブでのバイト経験を申し出たところ、日テレ側から「清廉性がない」として、アナウンサー職での内定を剥奪。その後、笹崎さんは過去のバイト歴を理由に内定を取り消しされるのは不当だとして、地位確認を求める訴訟を起こし、今年に入ってから事態は急展開を迎えた。
「それまでは『清廉性』を理由に内定を取り消した日テレ側に批判の声が集まっていたものの、和解成立で笹崎さんの入社の可能性が高まると、ネットユーザーは『こんな人にニュースを読んでほしくない』などと、手のひら返し。世間の厳しい視線が一気に笹崎さんへ向かった印象です」(芸能ライター)
 そんな中、今回の「週刊ポスト」では、インターネット上の写真投稿サイトで一般公開されていたという2012年時の写真を掲載。笹崎さんはノースリーブのミニワンピース姿でソファに寝そべり、太ももを露わにした状態。笹崎さんの友人が仲間内に公開していたフォトアルバムには、笹崎さんと恋人とのLINEのやりとり画面までアップされており、「彼女がいかに派手な学生生活を送っていたかが垣間見える内容」(同)という。
「また、同誌では『昨日の飲み楽しすぎた。久々…』というコメントがついたプリクラ写真の存在を問題視。笹崎さんが成人する前の投稿であるため、未成年時に日常的な飲酒をしていた可能性を指摘しています。日テレ関係者は、内定取り消しについて『ホステス歴もさることながら、むしろ笹崎さんの私生活に心配があったからといわれていた』とコメント。現在、そのフォトアルバムは閲覧できない状態になっているそうです」(同)
 今回の報道について、ネット上では「未成年飲酒の違法はアウト」「もう報道は難しいね」「テレビ出ても見たくない」といった声が噴出するなど、もはや擁護する人もほぼない状況だ。
「『清廉性』を主張して内定を取り消したこともあり、『日テレは正しかったかも』などと、『ポスト』の記事を機に日テレを支持する声が上がるように。中には『日テレ側からの嫌がらせ』を疑う声もあり、『これから芋づる式に、笹崎さんのネガティブ情報が出てきそう』と、予測されています」(同)

 入社を前にして前途多難な笹崎さんだが、4月の入社までにどんな展開が待っているのだろうか?






二度とSBのルーは買わない


 いろんなカレーを作ったけれども・使ったけれども、一昨日作ったこのSBの
「おいしさギューッととけ込むカレー」
 は、これまでで一番まずいものだった。二度とSBのこの類のカレーは買わないようにしよう。自戒のためにブログにアップしておく。
 昨日はココスでパエリアを食べたけれども、これも美味しくはなかった。
 こうしたことを書いていて、ふと、あのビデオを思い出す。
 最近見た、どこかの難民収容所。
 国連かどこかの機関から配給される食糧。長い列。子供たち。プラスチックの容器に小麦粉を入れて、そこに水を加える。ドロドロになったその小麦粉液体を、スプーンですくって食べる。それが「食事」。
 それを思い出せば、大量に残っているSBの「おいしさギューッととけ込むカレー」(ネーミングに関してヒトコト:冗談顔だけにしろ)も、文句を言わずに食べてしまうことができるだろう。水溶き小麦粉よりはマシなのだろうから。






北星学園大学問題 郷路征記


参照 http://www.glo.gr.jp/

▲:北星学園大学が「国賊であるかないかを裁判所が決める」ということになるのだろうか? そんなことが裁判所が判断する事項なのだろうか?
 もっとも、どこかの裁判所で、女性がコリアン系と判明して男性(どこかの市会議員)が別れ話を告げたところ、女性が裁判に訴え、裁判所が「個人の結婚の判断」にまで「踏み込んで」判決を下し、男性に損害賠償を命じたことがあったから、この国の裁判所はどこまでも「踏み込んだ(逸脱した)」判断を示すのかもしれない。
 国賊か否か、なんていうのは、個人の(勝手な)判断だろう。それとも、国賊ではない、と裁判所が決めて、以後北星大学を国賊と罵った場合、訴えられて有罪となるのだろうか?
 言論の自由も何もあったものではない。北星学園大学への「ヘイトスピーチ」は一切許さない、ヘイトスピーチかどうかも「裁判所が決める」ということを、この弁護士は、というか、438人の弁護士たちは狙っているということなのだろうか。そうなのだろう。




自治労北海道と北星学園大学教授・岩本一郎






▲:北星学園大学の岩本一郎。
岩×のグループということなのだろうか。
北星学園大学には、大勢のコリアン留学生がいるということである。大勢引き受ければ、それだけ「私学助成金」とか、そういった補助金が出るということなのだろうか。


 朝日新聞の記事。
■脅迫問題で連合北海道 
慰安婦問題の記事を書いた元朝日新聞記者(56)が非常勤講師を務める北星学園大(札幌市厚別区)に脅迫文が届くなどした問題で、 連合北海道(工藤和男会長)は3日、同大に対し、圧力に負けずに大学の自治を守るよう要請した。 
以下ソース 
ソース:朝日新聞 2014年10月6日09時58分 
http://www.asahi.com/articles/CMTW1410060100006.html 

猪瀬直樹が略式起訴で生き延びるなら小渕ドリル優子も同じだろう 高倉健

 http://www.j-cast.com/tv/2014/12/26224172.html
  『週刊現代』の児島美ゆきの告白に続いて、『週刊文春』は「高倉健に養女がいた!」というスクープを飛ばしている。彼女はTさん。元女優で現在50歳になるという。健さんが正式に養子縁組をして彼女を養女にしたのは昨年5月(2013年)だ。健さんは「長年世話になった人に財産を残したい」といって弁護士に相談したという。
   遺書もある。葬儀は「戒名なし、葬式なし、散骨を希望する」というものだそうだ。Tさんは健さんの食事や洗濯、掃除など身の回りの世話をして、時には相談相手になるなど、健さんに影のように付き添っていた。
   <彼女が健さんの『特別な存在』だったことは間違いない。健さんとTさんは年齢差が三十三歳あるが、妻であり、母であり、娘でもあったのかもしれない>と週刊文春は書いている。
   11月に再入院後、寝ている高倉の頬にTさんの涙がこぼれたとき、彼はこういった。<「どうして泣いているの? 僕は家に帰るんでしょう。おかしいよ、泣いたりしたら」>
   Tさんは<「その会話の後、高倉は私の涙をそっと指で拭ってくれて、ひとこと「ありがとう」と。滅多に聞かれなかった言葉でした」>と声を震わせたという。
   文藝春秋に発表した高倉の手記もTさんが病室で口述筆記したものだった。私も行ってみた京都の行きつけの喫茶店「花の木」に掛かっていたジャン・ギャバンの白黒写真を寄贈したのは健さんだった。<「ジャン・ギャバンは亡くなられたとき、フランス海軍によって散骨が叶いました。『憧れるなぁ』という言葉が耳に残っております。
   折に触れて、『人は必ず死ぬ。死なない人間はいないんだ』と話しておりました。病気になってからではなく、死後のことは、『Tに任せる。僕のこと、よく知ってるでしょ』と。責任を痛感しております」>
   Tさんという人を健さんはとても信頼していたんだろう。なぜかホッとする。
   健さんが可愛がった俳優・石倉三郎が結婚したとき、ペンダントが贈られてきたそうだが、そこに書かれていた健さんの言葉がいい。「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、競わず、争わず、もって大事をなすべし」
   Tさんなら遺産相続で揉めることはないだろう。
東京地検怒り心頭!小渕優子事務所が証拠隠滅―パソコンをドリルで破壊
(中略)
   さて、12月20日付の『日刊ゲンダイ』がこう報じている。<東京地検と小渕優子衆院議員の『全面対決』に突入するのか。小渕事務所のデタラメ政治資金問題で、特捜部が10月に政治資金規正法違反容疑で元秘書の折田謙一郎前中之条町長(66)宅や後援会事務所などを家宅捜査した際、会計書類を保存したパソコンのハードディスクが破壊されていたことが分かった。
   壊された複数のハードディスクには、ドリルなどの工具で穴を開けた形跡が見つかったという。
「パソコンのデータは画面上で消去しただけでは完全に消せません。簡単に復元できてしまう。しかし、物理的に壊すと復元は難しくなる。ドリルを使って入念に壊したということは、保存してあったデータを何が何でも処分したかったのでしょう」(ITジャーナリストの井上トシユキ氏)>
   小渕は特捜部の強制捜査が入った当時、「捜査に協力するように指示している」と説明していたが大ウソだった。週刊新潮が「電動ドリル『小渕優子』お咎めなしなら特捜部はいらない!」と特捜部を叱咤している。あまりにも舐めたやり方に特捜部は怒り心頭だと、司法記者がこういっている。
<「特捜部では、電磁的証拠を取り扱うデジタルフォレンジック(DF)班がデータの復元、解析を試みたものの、完全にお手上げの状態。現場の検事らは、捜査をあまりにコケにした行為に、軒並み憤っています」>
   しかしそうはいっても、小渕議員が起訴されるかどうかは微妙だという。岩井奉信日大法学部教授はこう話す。<「たとえ違法性は問えなくても、その政治資金には観劇以外にも多くの問題があるわけですから、道義的には議員辞職は免れません。もし不起訴となって辞職しないとなれば『ザル法である政治資金規正法のおかげで辞めずに済んだ』という議論が必ず出てきます。自民党も、所属議員の不祥事ですから法改正に動かざるを得ない。辞職の如何によらず、彼女には茨の道が待っていますよ」>
   司法ジャーナリストの鷲見一雄は検察の動きをこう予測する。<「今回のドリル事件は、ぬるま湯的な捜査のムードを一変させました。法秩序に対する許し難い蛮行であり、もし小渕議員を放置したり軽い処分で終わらせれば、検察への信頼は大いに揺らぎます。最近でも、徳洲会事件で徳田虎雄元代議士が健康状態を理由に不起訴になったり、その徳洲会から5000万円を受け取った猪瀬前都知事が略式起訴でうやむやになりました。国民には『なぜ検察は政治家に甘いのか』というストレスがたまってきています」>
   可愛い顔をして裏で悪事を働く女はいくらでもいる。小渕議員が指示してやらせたとすれば悪質この上ない証拠隠滅行為だが、検察は追及できるのか。はたまた大山鳴動してネズミ一匹も出てこないのか。地に堕ちつつある検察の正念場である。

▲:高倉健の「戒名なし、葬式なし、散骨希望(つまり墓なし)」というのは、理想的である。一般の日本人はマネしたくても、世間のしがらみがあって、できない。







朝日新聞はニューヨークタイムズの手下

朝日新聞はニューヨークタイムズの手下である、と、はっきり書いて欲しかったけれども。



週刊新潮 2014年12月18日号
日本ルネッサンス 櫻井よしこ
「弱い日本」を望む米国の反日言説
 ペリー率いる黒船4隻は砲艦外交でわが国に開国を迫ったが、その後、日米関係はあからさまな敵対関係に陥ることなく基本的に友好関係を維持し、交易を拡大させた。明治38(1905)年、日本が日露戦争に勝ったとき、セオドア・ルーズベルト大統領は日本の勝利を喜び、ポーツマスての講和条約の交渉を後押しして、ノーベル平和賞を受賞した。
 これはしかし、表の出来事である。表の動きと同時進行て、アメリカは対日警戒心を抱き始める。日本を太平洋における仮想敵と位置づけ、いつの日か日米は戦うという前提で、明治39(1906)年には「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦争計画を立案した。
 同計画は、議会で立法化されたわけでも大統領が署名し正式に承認したわけでもないが、米海軍将校の遺伝子に組み込まれるまで深く研究され、改善を加えられ、完成された。この対日戦争計画が、日本が対米戦争を始める35年も前に作成されたことを見れば、アメリカの戦略の深さ
を思い知らされる。
 日本への強い猪疑心と警戒心から生まれた同計画だったが、実はその発端は日本人への人種差別だったと、エドワード・ミラーの『オレンジ計画-アメリカの対日侵攻50年戦略』(新潮社)に明記されている。
 明治24(1891)年から明治39年の間にカリフォルニアに渡った数千人の日本人移民は、白人社会の人種差別を受けた。差別を煽ったのはメディアだったが、とりわけ「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)はその先頭に立った。
 たとえば1906年12月16日の紙面には、次のような記述が見える。
・日本人は地味で小柄で褐色で、我々のもとに召使いを送り出す人種だ。
・日本人と中国人とでは、はっきり言って中国人の方が服装にしても一般的な伝統にしてもはるかに好感が持たれている。
・日本人は日露戦争後、並はずれてうぬぼれるようになり、中国人と一緒に住もうとしない。
・アジア人は劣等人種にとどまらなければならず、それが気に入らないのであれば米国に来てはならない(『アメリカの戦争』田久保忠衛、恒文社21)
事実無根の主張
 このような偏見と差別思想の報道に世論は刺激され、事態は緊迫した。それがオレンジ計画策定へと米海軍大学の背中を押したと、当の海軍大学資料に書かれている。
 それから35年後の日米開戦の原因をNYTの報道に求めるつもりはないが、同紙の報道が日米聞係悪化のひとつの要因となったのは確かだろう。さて、その同じ新聞が、今も不条理な対日非難を展開しているのだ。
 12月2日、マーティン・ファクラー東京支局長が「戦争の書き直し、日本の右翼が新聞社を攻撃」と題して、一方的な日本叩きを展開した。慰安婦問題での日本国内の朝日新聞批判を「右翼」「超国家主義者」の行動と断定し、植村隆氏を犠牲者として描いた。ファクラー氏は「植村隆が記者として世に出た記事を書いたのは33歳の時だった」「ジャーナリズムから引退し、56歳のいま、彼は右
翼政治勢力のターゲットになっている」と同情するのだ。
 その上で、「安倍首相とその政治的仲間は朝日の悲劇を待ちに待った好機ととらえ、数万人の韓国などの国々の女性たちを日本軍の性奴隷として強制したという国際社会の定説(の否定)を狙っている」とも主張する。
 続いて4日、同紙は朝日批判に対する批判を社説に格上げした。「日本における歴史のごまかし」と題し、
「日本の右翼政治勢力が安倍政権に奨励されて」「第二次世界大戦時の恥ずべき歴史を否定する脅迫キャンペーンを展開中」と非難し、安倍首相と日本の右翼が歴史修正を目論んでいると言及した。
 NYTは、植村氏が金学順氏の物語を握造したことも、慰安婦とされる女性たちの証言が根拠を欠いていることも指摘しない。同紙によるこの種の一方的な報道は慰安婦問題に限らない。9月29日に掲載された、アメリカの歴史学者ハーバート・ビックス氏の「ヒロヒトは操り人形ではなく黒幕だ」の記事も同様だ。
 ビックス氏の昭和天皇と日本、さらには安倍政権への非難は、如何にしてこれほど偏向し得るのかと思うほど知的公正さを欠いている。氏は「ヒロヒト」と呼び捨てにし、政策決定に天皇が介入する制度やイデオロギーを昭和天皇が体現していたと主張し、「戦後、アメリカ型の憲法が彼の統治権を剥奪したあとでさえも、政治に干渉し続けた」と甚だしい事実無根の主張を展開する。「ヒロヒト
は臆病な日和見主義者で、何よりも皇室の維持に熱心だった」とも書いているが、根拠は全く示していない。昭和天皇が立憲君主として憲法を守り、政治介入をどれほど誠実に回避したかなど、全く見ていない。研究者の風上にも置けない誹膀中傷を書いて、氏は恥じない。その主張を載せてNYTも恥じない。
 同紙はなぜ悪質な言説を繰り返すのか。彼らの日本批判が、アメリカの対日観の一部であるとはいえ、今も根強く存在する日本蔑視の主張の反映であることを歴史は物語っている。
(以下略)



産経新聞
2014.12.27 08:17
「レッテル貼りの偏向」
 米国大手紙のニューヨーク・タイムズは、日本でいま朝日新聞の慰安婦報道の誤報や虚報を批判するのは「右翼(Right wing)」の「国粋主義者(Nationalist)」たちだと断じ続ける。その真の主導役は安倍晋三首相なのだとまで示唆する。朝日新聞自身が認める大誤報を論じること自体が言論弾圧だというのだ。
 ニューヨーク・タイムズのこの種の用語法は「不当なレッテル貼りの偏向」だとする報告が、米国のニュースメディア研究機関「メディア調査センター(MRC)」から発表された。1987年創設のMRCは民間の保守系とされる独立調査機関である。活動目的の一つは「米国の伝統的な価値観を崩す主要メディアのリベラル的偏向を科学的な調査で証明し、指摘する」ことだという。実際にその種の偏向実例を提起する活動は米国のメディア界や政界で広く知られてきた。
 MRCの今回の報告はとくに、ニューヨーク・タイムズ12月3日付のマーティン・ファクラー東京特派員の「日本の右翼が戦史を書き換え、(朝日)新聞を攻撃する」という見出しの記事を主題としていた。
 「ニューヨーク・タイムズのレッテル貼りの偏向はこの記事のようにグローバルに広がる。同紙によれば欧州もアジアも危険で不快な右翼どもに満ち満ちているというのだ」
 「ファクラー記者は自分たちが悪者とみなす日本側の相手は『超国粋主義者』という偏向の呼称では不十分とみなし、『右翼』というレッテル言葉を記事中のすべての段落で使っていた」
 実際にファクラー記者のこの記事は「右翼」という用語を10回以上も連発していた。すべて朝日新聞の慰安婦問題誤報を批判する側への決めつけだった。その表現に従えば、誤報を厳しく批判した朝日新聞第三者委員会も「言論弾圧の右翼」となる。
 だがニューヨーク・タイムズの記事には「右翼」についての定義も説明もない。語感として排他、独裁、さらには無法などという政治志向を思わせるだけなのだ。この記事でのその使い方からすれば、非民主的なファッショまでを連想させる侮蔑的な言葉だともいえる。
 この報道姿勢に対しMRC報告は同紙が「右翼」のレッテルを貼るのは米国内の保守派に加え、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相やポーランドの政治家の同性愛志向に反対するメディア、そして日本の安倍首相らだとして「同紙にとって全世界でとにかく悪いのは『右翼政治家と右翼メディア』なのだ」と、からかい気味に批判していた。
 事実、ニューヨーク・タイムズは最近の社説やソウル発記事でも安倍首相を「右翼首相」と呼び、「安倍政権が朝日新聞への威嚇運動を奨励している」と断じていた。日本国民が民主主義的な方法で選んだ首相に「右翼」という反民主主義的な決めつけをにじませたレッテルを根拠を示さないまま貼るのは、偏向した断定としかいえないだろう。同紙は非民主的な独裁国家の元首の習近平氏や金正恩氏にはそんなレッテルを貼らない。

 言語の機能を研究する意味論の権威S・I・ハヤカワ氏の分類に従えば、この種の断定の、ののしり言葉は一見、客観的な意味を持つように響きながら、実は使い手の主観的な嫌悪の情を表しただけの「イヌの吠え言葉」(反対は「ネコのなで言葉」)と呼ばれるそうである。(ワシントン駐在客員特派員・古森義久)
▲:ニューヨークタイムズにとって朝日新聞は「可愛い子分」。その可愛い子分が「いじめられている」と思っているので、傲慢をかましているのである。
 ニューヨークタイムズの記事を読んでいると、中南米や中東、それにヨーロッパやアフリカ、世界中のどこでも、「反米感情」というものが自然と湧いてくるのが理解できる。どこまで傲慢なのだろう、自分たちの価値観に合わないものは全てこうしてレッテルを貼って攻撃している。やがてアメリカの時代も終わるのかもしれないけれども、もしそうなるとしたら、アメリカの傲慢の自業自得ということになるのだろう。
 こうした巨大権力(NYTは国際金融資本の犬)に対して、日本人を裏切り、尻尾を振って協力しているのが、ノーベル賞乞食の村上春樹なのである。







北星学園大学 植村隆 私は被害者



 私は被害者・私は「戦争を書き換えようとする日本の右翼」と闘う英雄、ということで世界デビューを果たした北星学園の植村隆。
 北の人民日報・北海道新聞によると、植村を非難する日本人はどうやら「ならず者」と呼ばれることになるらしい。下の記事は、「歴史を学べ・反省しる!」と火病発作を起こしている観を呈している土江富雄という記者のコラム。



 北海道新聞がこの件に関してやってきた「悪行」は、以下に詳しい。「奴隷狩り」という大見出しで、吉田記事を紹介し、韓国に大きな衝撃を与えて反日運動を煽った。本当に悪辣な新聞社、それが北海道新聞である。





お笑いコリアン暴力団労組党

民主陣営、政治資金で「キャバクラ」通い 元候補者謝罪、「都議や区議が使用」と内幕バラす
2014/12/25 19:10 JCAST
  「政治とカネ」の問題が繰り返し問題化するなか、2012年の衆院選に民主党から出馬して落選した候補者が、自らの政治資金問題で謝罪文をウェブサイトに掲載し、民主党を厳しく批判するという異例の事態になっている。
   元候補者の収支報告書にはキャバクラなど「一般感覚ではありえない不適切な領収書」が多数含まれているが、本人は関与を否定。自らは資金を管理できていなかったとして、民主党内に「腐った体制」があるとまで批判している。
「一般感覚ではありえない不適切な領収書」
民主党の元候補者がウェブサイトに掲載した謝罪文。「一般感覚ではありえない不適切な領収書」が多数あったという
民主党の元候補者がウェブサイトに掲載した謝罪文。「一般感覚ではありえない不適切な領収書」が多数あったという
   謝罪文を公表したのは、2012年12月の衆院選で東京11区(板橋区)から民主党の公認を受けて出馬した太田順子氏。衆院選には6選を目指していた下村博文文科相(自民)に大差で敗れ、2年が経過してから問題が浮上した。
   太田氏の資金管理団体の12年分の政治資金収支報告書では、民主党本部から受け取った約400万円の収入があった。この400万円が収入のほぼすべてだ。問題なのが、この400万円の使途だ。選挙期間中とその前後の「食糧費」として70万1580円が費やされており、支出先はパブ、バー、寿司屋など板橋区内の飲食店だ。
   太田氏がこのほどウェブサイトに掲載した謝罪文によると、この「パブ」とは「一般的にキャバクラと言われる店」で、これらを含めて「一般感覚ではありえない不適切な領収書が多々認められます」と説明。ただ、太田氏によると「民主党都連の指示に基づき、民主党板橋幹事長の区議に通帳、印、カードを預けました」といった経緯があり、「私自身が正確な収支が把握不能の状態」だった。これは太田氏が元々東京11区に地盤を持たない「落下傘候補」だったことが大きいようで、完全に地元の都議や区議が資金をコントロールしていたと説明している。
「私の選挙資金は都議、区議が自由に使用していました。選挙後は都議、区議の後援会口座に寄付をするよう強要されました。公職選挙法に基づき、寄付の強要を私は拒否致しましたが、使用された資金はどうすることもできませんでした」
政治資金の原資は国庫から支出される政党助成金
   「現在まで全容解明、修正対応をしたく努力して参りましたが、叶いませんでした」として、公表に踏み切ったという。
   民主党には、税金を原資とする政党助成金が12年には約165億円支払われている。民主党はこういった補助金をもとに候補者に政治資金を渡している。こういった政治資金の使途としてキャバクラは不適切だという批判が出そうだ。
   太田氏の謝罪文はこう結ばれており、民主党から出馬したことの後悔をまったく隠していない。
「私は2年前の選挙で、民主党への支持を訴えて参りましたが、それらは誤りでした。私のことを応援してくださった方々、私の演説を聞いてくださった方々に対し深くお詫び申し上げます」

2014年12月26日金曜日

『「奥の細道」をよむ』 長谷川櫂

(P25~)
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

十月八日の吟。その四日後、芭蕉は帰らぬ人となる。

心の「かるみ」

 若いうちは誰でも、人生にはいいことがたくさんあるにちがいないと思っている。人生は幸福の宝箱だと信じている。もしそうでなかったら、生まれてくる意味なんかないじゃないか。
 ところが、長く生きてくると、どうもようすが違うことに気づきはじめる。いつまでも若いわけではなく、徐々に老いが忍び寄る。健康なときばかりではなく、病のときもある。長く生きていれば、家族や友人たちの死にめぐり合う。ときには自分より若い人に死なれることもある。こうして、最後には自分自身の死を迎えるわけだ。
 若いときには、幸福になれると信じていたのに、決してそうではなかった。幸福とは虚妄にすぎないのかもしれない。それどころか、この世に生を享けること自体、最大の苦しみではないのか。そんな疑いが心をよぎることもあるだろう。それを昔の人は生老病死と呼び、人がこの世で享ける苦しみの筆頭に生を置いた。人生とは何と悲惨なものだろうか。
 これは若い人にはいわないほうがいい。しかし、少なくとも五十歳を超えた人は知っていなくてはならないことでもある。芭蕉は五十歳で亡くなった。現代の私たちはその芭蕉の死後の長い歳月を生きてゆかなくてはならないのだ。
 この長く悲惨な人生をどう生きていったらいいのか。大きく分けて二つの道があるだろう。一つの道は嘆くこと。これは和歌、そして、それを引き継いだ短歌的な生き方である。それに対して、もう一つの道は笑うこと。こちらは、俳諧、そして、それを引き継いだ俳句的な生き方である。悲惨な人生をさめざめと嘆くのではなく、笑って悲惨な人生に対すること。
 たしかに人生を幸福なものと思っていれば、ときどき出会う不幸は耐え難いものに思えるだろう。こうなると、次々に降りかかる不幸を嘆くしかない。ところが、はじめから、人生は悲惨なものと覚悟していれば、ときどきめぐってくる幸福がすばらしいものに思える。
 芭蕉が『おくのほそ道』の旅以降に詠んだ句はどれもこうした人生への深い諦念の上に立って詠まれている。あるいは、こうした諦念を下に敷いて読まなければ、その味わいがわからない句である。
(引用終わり)

 たとえば、能。
 いつだったか白洲正子の本を読んでいた時に、能とはすべて幽霊の話である、といったような文章に出くわしたことがある。考え見ればその通りで、全てかどうかは知らないけれども、私の知る限りすべての能の出し物は、霊が現れて何事かを語る物語である。
 日本人は――とは言わない。全ての日本人が「能」に染まっていたわけではないのだから。ただ、ああした能に共感できた日本人は、死後の霊の存在をごく身近なものと感じることができただろう。死とは、超越的な世界への移行ではなく、この世と繋がった霊界への移行であると思えたことだろう。
 西行の歌は、待賢門院璋子との愛欲を断ち切らざるを得ない彼が、仏道に救いを求める心の旅の紀行記録。ただ西行は本当に仏教を、そして神道的霊界の存在も信じていただろう。
 そして芭蕉がくる。芭蕉にはしかし、たとえ墨染めの衣を着たにしても、その俳句からは来世願望は感じられない。今・ここにある美を、昔この世界に存在した美を、味わいつくそうとする。美とは、風景であり、音であり、花鳥風月、要するにこの世界の森羅万象である。それれが与えてくれる「満ち足りた心」を、俳句で掬い取る、掬い取り文字に収めることで「存在させる」。

 さまざまの事おもひ出す桜かな


http://4travel.jp/travelogue/10152941


作製途中



P194~
易流行から「かるみ」ヘ
『おくのほそ道』一巻はこうして終わる。ここで忘れてならないのは、芭蕉の「かるみ」という考え方が、この『おくのほそ道』第四部、市振の関から大垣までの間に芽生えたことである。これは偶然ではない。
 芭蕉はこの第四部で人の世のさまざまな別れと遭遇する。別れとは何かといえば、人生の究極の姿だろう。一口に別れといっても、日常的なしばしの別れから決定的な生き別れ、死に分かれまでいくつもの形がある。しかし、こうしたいくつもの別れはすべて人生の小さな一こまの、あるいは、大きな時代の帰結なのだ。
 人生には悲しい別れの一方で喜ばしい出会いがあるが、すべての出会いは別れで終わる。どんなに仲むつまじい親子も夫婦も友人も、やがて別れの日がくる。たとえ喧嘩別れをしなくても、いつの日か、白ずくめの死が二人の間にまるで媒酌人のように腰をおろしているだろう。まさしく会うは別れの初め。それに対して、別れは出会い、つまり再会で終わるとはかぎらない。別れはしばしば永遠につづく。人生は結局、別れ、この一事に尽きるのだ。
 さまざまな悲しい別れの降りかかってくる人生を人はどのようにすれば耐えることができるか。芭蕉が『おくのほそ道』の第四部で直面したのはまさにこの大問題だった。そのとき、芭蕉の胸に芽ばえたのが「かるみ」にほかならない。
『おくのほそ道』第三部で芭蕉は太陽が輝き、月が照り、星たちのまたたく宇宙の世界を通ってきた。そこで生れたのが不易流行の考え方である。この宇宙は一見、変転極まりない流行の世界に見えながら、実は何一つ失われることのない不易の世界である。流行こそ不易であり、不易こそ流行。
 この宇宙の姿を人の世に重ねたとき、見えてきたもの、それが「かるみ」だった。人生はたしかに悲惨な別れの連続だが、それは流行する宇宙の影のようなものである。そうであるなら、流行する宇宙が不易の宇宙であるように、悲しみに満ちた悲惨な人生もこの不易の宇宙に包まれているだろう。
 そう気づいたとき、芭蕉は愛する人々との別れを、散る花を惜しみ、欠けてゆく月を愛でるように耐えることができたのではなかったか。これこそが「かるみ」だった。
 このように「かるみ」は不易流行と密接なかかわりがある。そして、不易流行がそうだったように、「かるみ」もまた俳句論である前に人生観だった。この「かるみ」という人生観が『おくのほそ道』以降、芭蕉晩年の俳句に抜き差しならぬ影響を及ぼしてゆくことになる。


『俳句的生活』長谷川櫂(中公新書・2004)

P2554~
 昭和三十四年(一九五九年)春、虚子が鎌倉の自宅で残り少ない日々を送っていたころ、七十二歳の谷崎潤一郎は相模湾を一望する熱海伊豆山の家で前年十一月に起こった脳溢血以来の右手の麻痺に悩まされていた。このとき、すでに谷崎は十一年前に『細雪』を書き上げ、五年前に『源氏物語』の二度目の現代語訳も終え、三年前には『鍵』を発表して、今や堂々たる老大家だった。
 谷崎を襲った脳溢血はこれが初めてではなかった。昭和二十七年(一九五二年)四月、東京行きの電車が新橋に到着する間際、棚の荷物を降ろそうとして「左の脚より右の脚の方が少し長くなった気持」に急に襲われたことがあった。そのあと、右足の不自由、記憶の空白、激しい眩量などの症状がしばらく続いたが、治療の末、一年後にはどうにか快復した。
 昭和三十三年十一月の脳溢血は虎ノ門の定宿福田家に滞在中に起こった。十日ほどそこで安静にしてから熱海の家に帰ったが、依然、右手が麻輝したままだったので自分で筆をとって書くことを諦め、これ以降、口述筆記を頼むことになる。それから二年後の昭和三十五年十月、今度は狭心症の発作に襲われてしばらく東大病院に入院し、暮れに退院する。
 その翌年八月、谷崎は『瘋癲老人日記』の口述をはじめた。この小説はその年の『中央公論』十一月号から翌年五月号まで七回にわたって連載された。物語は谷崎の分身らしい卯木沓助という七十七歳の老人がカタカナで書く日記という形で進められる。谷崎自身が語ったという言葉を借りれば「いい年をして息子の妻にうつつを抜かし、変てこな夢物語を日記に書く狒爺」の話である。これを読んだ谷崎の昔からの読者は五年前の『鍵』に次いで性懲りもなく老大家がつづる痴話に半ばあきれつつも魅了されたにちがいない。
 『瘋癲老人日記』の主人公の卯木は男性としてはすでに「不能ニナツタ老人」である。高血圧症で体じゅう相当ガタがきていて死の瀬戸際にいながら息子の妻である颯子に気がある。
「不能ニナツテモ或ル種ノ性生活ハアルノダ」。颯子はマチスの絵のモデルの女のように健康で野蛮な色気の持ち主であり、卯木老人は結婚前はダンサーだったとかいう颯子の「綺麗ナ足」にことのほか惚れこんでいる。
 その颯子は颯子で自分に対する老人の執心を知っていて、夫の従弟との仲を見せつけたり、シャワーを浴びながら老人に足にキスさせたり、挙句の果てにはネッキングをさせてあげた代わりに百万円の猫眼石の指輪を買わせたりしてこの「可哀想ナ老人」をいたぶりながら狂喜させる一方で、颯子自身も老人との悪ふざけを楽しんでいる。
 墓所を探すために親子と看護婦に付き添われて京都に滞在しているとき、卯木老人はこの颯子への、ことに「柳鰈ノヤウニ華奢デ細長イ」足への執着が高じて颯子の足の裏をかたどった仏足石を彫って自分の墓石にしようと思い立つ。颯子の仏足石の下に葬られたい。もしそれが実現すれば老人は飽くことのない願望どおり死後永遠に颯子の足に踏みつけられることになる。「泣キナガラ予ハ『痛イ、痛イ』ト叫ビ、『痛イケレド楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテヰタ時ヨリ遥カニ楽シイ』ト叫ビ、『モツト踏ンデクレ、モツト踏ンデクレ』ト叫ブ」。
 この罰当たりな妄想に駆られた老人はただちに計画を実行に移す。京都ホテルの一室で颯子と二人きりになると、朱を染みこませた紅絹のタンポで颯子の両足の裏を叩いて色紙を踏ませ、夢にまでみた親子の足の拓本をとることにまんまと成功する。
 この卯木老人は谷崎自身の容赦なき戯画である。谷崎はここで性的な能力を失ってもなお若い女性を愛し、死を恐れつつ死に赴こうとしている「可哀想ナ老人」である自分を笑っている。この小説が老人の性と死という下手をすれば陰惨な話とならざるをえない重い問題を扱っているのにもかかわらず、さながら原色があふれ大胆に構成されたマチスの絵が動き出したかのようにむしろ洒落た明るい印象を与えるのはこの徹底した笑いの力によるのだろう。
 谷崎は長い人生の果てに老いて死と直面したとき、死の恐怖を跳ねのけようとするかのように、あるいは死と和解を図ろうとするかのように笑いの世界へと転じた。『瘋癲老人日記』は谷崎の俳諧なのである。当時、谷崎は七十五歳であったから、この物語は自分自身の二年後の近未来の話として書いたことになる。


P231~
 子規が滑稽家としての面目を遺憾なく発揮したのはその臨終の場面だった。
 子規は明治三十五年九月十九日未明になくなる。その前日十八日の朝、碧梧桐は容態悪化の知らせを受けて子規の根岸の家に駆けつけた。午前十一時ごろ、子規は寝たまま画板を妹の律に支えさせ、自分は左手でその下を持ち、板に貼った唐紙に絶筆となる糸瓜(へちま)の三句を墨で書いた。その場に居合わせて絶筆の介添え役を果たすことになった碧梧桐の回想「君が絶筆」によると、子規はまずいきなり紙の真ん中に、

  糸瓜咲いて

と書きつけたが、「咲いて」の三字がかすれて書きにくそうだったので碧梧桐が墨をついで筆を渡すと、子規は少し下げて、

痰のつまりし

まで書いた。碧梧桐は「次は何と出るかと、暗に好奇心に駈られて板面を注視して居る」。すると、子規は同じくらいの高さに、

仏かな

と書いたので、碧梧桐は「覚えず胸を刺されるやうに感じた」。ここで子規は投げるように筆を置いた。咳をして痰をとる。やがてふたたび画板を引き寄せて筆をとると、「糸瓜咲い
て」の句の左に、

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

と書いて筆を置くと、またしばらく休んで今度は右の余白に、

  をととひのへちまの水も取らざりき

と書いた。子規は第を置くことさえ大儀そうに持ったままでいる。穂先がシーツに落ちて墨の痕がついた。この三句をしたためてから十四時間後に子規はなくなる。明治の文人らしい壮絶な最期だった。
 この絶第三句も従来は悲劇的側面のみが強調されてきたきらいがある。しかし、よくよく眺めると、どれもおかしな句である。とくに最初の「糸瓜咲いて」の句は糸瓜の花かげで今にも絶命しょうとしている自分を「痰のつまりし仏」などと笑っている。そこには病苦にあえぐ自分自身をただの物体であるかのように冷静に眺め、しかもそれを戯画にしておかしがる筋金入りの滑稽の精神が存在している。
 二句目、三句目にある「糸瓜の水」とは糸瓜の蔓を切って根につながっている方の切り口を一升瓶などに挿しこんでおくと一夜にして水が溜まる。この糸瓜の揚げる水が「糸瓜の水」であり、古来、痰切りの薬とされてきた。「痰一斗」も「をととひの」の句も妙薬の糸瓜の水も甲斐なく、こうして自分はあっけなく死んでゆくといっている。この二句にも糸瓜の水さながらにさらりとした滑稽の精神が働いている。
 それまでは身辺のものに向けられていた子規の旺盛な滑稽の精神はいよいよ自分が臨終を迎えたとき、子規自身に向けられることになった。そうして詠まれた絶筆三句は子規という滑稽家の最後の燃焼だった。臨終の子規にとって人生は一幕の笑劇にほかならなかった。


P243~
 元禄七年(一六九四年)夏、『別座鋪』に次いで『炭俵』が出版されたとき、芭蕉はすでに江戸を離れ、最後の旅の途上にあった。この二つの選集は芭蕉が訪れた上方での評判も上々だった。九月、芭蕉は大坂に入るとさっそく江戸の杉風に手紙をしたためて「上方筋、別座敷・炭俵ニて色めきわたり侯。両集共手柄を見せ侯」と『別座鋪』『炭俵』の評判を伝えている。杉風は江戸における芭蕉の後援者であり、『別座鋪』の編者子珊の後ろ盾だった人である。
 ところが、こともあろうにその『別座鋪』をめぐって江戸の門弟の間でもめごとが起こる。杉風と並ぶ芭蕉の高弟であった嵐雪がこの選集に異議を唱え、これ以後、江戸の蕉門は杉風と嵐雪の二つの派に分裂することになる。『別座鋪』の成功が皮肉にも門弟同士の仲を裂いたことになる。
 一方、大坂では門弟の洒堂と之道が勢力を張り合って仲違いしていた。芭蕉が体調が思わしくないのに無理して上方へ向かったのは一つにはこの二人の仲裁をしなければならなかったからである。
 この最後の旅の最中にさらに悲しいできごとが芭蕉の身に起こっていた。芭蕉が江戸をたつと間もなく、深川の芭蕉庵に残してきた寿貞尼が身まかった。

  数ならぬ身となおもひそ玉祭り   芭  蕉

 旅先の芭蕉が寿貞尼の死の知らせを聞いて詠んだ追悼の一句である。「玉祭り」とは魂祭り、お盆のことである。こうした門人同士の争いや愛する人との死別に次々と見舞われるなか、元禄七年十月十二日夕方、芭蕉はこの世を去る。
 かつて子珊に俳諧とは何かと問われて芭蕉は「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり」と語ったという。芭蕉が晩年に唱えた「かるみ」とはこうした人の世の争いや悲しみの渦中から生まれ、そこで育まれたものだった。いいかえると、人の世にあふれる争いや悲しみを笑いへと軽々と転じてゆくことこそが「かるみ」だった。それをさらりと「かるみ」といった。私が「かるみ」は単に言葉や表現上の問題ではなく、人の心の持ちようであり生き方の問題であるというのはこのことである。
 芭蕉のみならず人生は辛酸に満ちている。楽しいことうれしいこともあるにはあるだろうが、秤にかければ苦しみと悲しみの方が重い。この悲惨な人生を前にして歌人であればただ泣けばいい。しかし、俳人は苦しみや悲しみを笑いに転じる。人の世に満ちる悲惨の数々を最後まで見届ける。これが俳諧の精神であり、「かるみ」だった。芭蕉の死とはそういう死であった。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る    芭蕉

 最後に遺されたこの句に悲愴ばかりを見てはいけない。「夢は枯野をかけ廻る」とは辛酸に満ちた人の世を死してなお見届けるという俳諧の精神そのものだろう。

 芭蕉の死から三百年後、病苦にあえぐ子規は「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」と書いた。子規を支えたこの「平気で生きて居る事」という悟りは実は晩年の芭蕉が唱えた「かるみ」のことだった。子規自身は気がついていたかどうか。それは「俳句分類」という作業を通じて江戸俳諧から子規へとたしかに受け継がれたものだった。





資料 芭蕉

2010.05.22    

女の裏切りが芭蕉を生んだのだろうか  [ 文学・翻訳 ]     


 生きていると、突然、思わぬことが起こる――不幸に襲われることがある。
 たとえば30年前にはこんな事件があった。以下はウィキからの引用である。

● 新宿西口バス放火事件
1980年8月19日(日)21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのため停車中だった京王帝都電鉄(現・京王バス東)の運行する中野車庫行きバス(日野RE100)の車内に、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。
 火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。
 犯人(当時38歳)は北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれたが、父親は定職を持たないアルコール依存症で、親が教育に不理解であったため小学5年生ごろからほとんど登校していなかった。犯人は父親の病死を機に全国を建設作業員として転々とする。1972年に結婚するも、妻が長男を出産した翌年に離婚。子供を児童施設に預け、各地を転々としながら現場作業員として働いていた。
 事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところ、通行人などにここから出て行けと言われてカッときて犯行に至った[1]。

手記・映画 
 この事件の被害者の一人、杉原美津子は事件後『生きてみたい、もう一度』という手記を出版した。これはベストセラーとなり、1985年に『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画化[3]された。彼女は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため全身80%火傷の重傷を負ったが、回復した。彼女は自らの希望で被告人に接見している。犯人に対しての言葉は「もう一度やりなおして欲しい」であった。
(引用終わり)

 杉原美津子は手記を書く・完成させるということによって、<突然の不幸>の意味を見い出そうとして、そうすることによって<突然の不幸>を乗り越えてゆこうとする。
 ガソリン放火で生死の境をさまようというのも突然の不幸だが、愛する人間を失うというのも同じようなショックを与えるだろう。愛する父母、愛する伴侶、愛する子供――を突然失うという不幸も、筆舌にしがたいものだろう。そういった場合も、人は何かによってそれを乗り越えようとする。
 手記を書くこともあるかもしれない、
 遍路に出ることもあるかもしれない、
 宗教に打ち込むこともあるかもしれない。

 悲しみや苦しみから「気を逸らす」、そして前進してゆくためには、そういった何かしらの「行動」が必要であり、役に立つ。四国遍路をやっていたときに思ったけれども(といっても徳島県の21番平等寺までしか終えていない)、たった一人で毎日歩いていると、悲しみや苦しみが「皮膚の切れ目から」砂のように落ちて消えてゆくのを感じた。日本中の苦しむ人間が、1000年以上も続けて、自分たちの悲しみと苦しみと辛さとを身体から砂のように落としてゆく道が遍路道のように思えた――これが「御四国病院」のメカニズムなのだろう。
 遍路だけではなく、
<前に進もうとする一切の行為>
 が、自己治癒を目指す行為となっているのだと思う。小説を書くことも、短歌や俳句を生むことも、あるいは山に登り、あるいは「何の変哲もない仕事をすることも(妙好人のように)」、自己治癒へと繋がっている。

 ということで、芭蕉、である。
 最近になって、田中善信の著作を2冊読んだ。その感想である。

 芭蕉は1680年に日本橋から深川に移り住む。そして深川に移り住んで以降の作品はそれまでの作品とは全く異なるものとなる――あるいは、次第になっていった。
 田中善信は『芭蕉二つの顔』のエピローグで、次のように記している。

(P288以下)
 羽振りのよい生活
 寛文一二年(1672)、二九歳のときに芭蕉は江戸に出る。従来、江戸へ出てからの芭蕉は貧しい生活を送っていたと考えられていた。
 延宝八年(1680)の町触れに「桃青」の名が記されていることは、早くから知られていたが、この町触れの内容は一度も検討されたことはなかった。じつはこの町触れは芭蕉の実生活を知るきわめて重要な手掛かりだったのである。この町触れから、芭蕉が神田上水の浚渫作業の請負人になっていたことがわかる。彼の後はこの仕事を名主がつとめている。芭蕉は名主ではなかったが、名主同様に江戸の住民から信頼される地位にあることが必須の条件だったと考えてよい。深川に移住する以前の芭蕉は相当羽振りのよい生活をしていたのである。
 このような芭蕉の暮らし向きを考えると、彼の身のまわりの世話をする女性がいても不思議ではない。むしろ、いなかったとすればそのほうが不自然である。多賀庵風律という俳人の書留によると、芭蕉には寿貞という妾がいた。従来、この書留の信憑性に疑問をもつ人は少なくなかった。疑問のひとつは、独身の芭蕉に妾があったとは考えられないということ、もうひとつは、貧しい芭蕉に妾を雇うほどの経済的な余裕があったはずがない、ということであった。しかし、江戸時代には独身の男が妾をもつのは珍しいことではなく、また妾は金持ちだけに許されたものでもない。それに、深川移住以前の芭蕉の生活は、従来考えられていたような貧しいものではなかった。寿貞がこの時期芭蕉の妾であった確証はないが、当時の芭蕉に妾がいた可能性は十分にあった、といってよかろう。
 従来、芭蕉の伝記研究において桃印はまことに影の薄い存在であった。芭蕉の甥であることは早くからわかっていたが、それ以外のことはほとんどわからなかった。今日学界では、桃印は寿貞の夫であったという考えが支配的になりつつあるが、しかしこれには批判もありまだ定説として確立するにいたっていない。
 桃印というのは芭蕉の別号の桃青にちなむ俳号だと考えられるが、俳号を名乗りながら桃印には一句の作もない。このことは従来から芭蕉研究者を悩ませてきた難問だが、桃印にはじつはほかにも難問がある。
(中略)

 すべてを失う覚悟
 伊賀上野にいたころの芭蕉は一介の武家奉公人であった。商家の丁稚奉公の場合、将来は主人から暖簾分けをしてもらって独立することもできたが、武家奉公人の場合は何十年つとめてもただの奉公人である。そうした奉公人の生活に見切りをつけて芭蕉は江戸に出たのであろうが、わずか四、五年のうちに神田上水浚渫作業という、いわば公共事業の請負いに着手するほどの社会的な地位を得た。「農人」の次男に生まれた芭蕉は、三〇歳を過ぎてようやく安定した生活を営むことができるようになったのである。もともと芭蕉は生活能力の旺盛な人物であったのであろうが、江戸へ出た直後の数年間は、日本橋本船町の名主小沢太郎兵衛のもとで、あたえられた仕事を精一杯にっとめたのだと思う。その結果、安定した生活を営むことができるようになったのであろう。
 芭蕉は延宝五年から神田上水浚渫作業を請け負うようになるが、請負人として公認されたのは延宝八年である。俳諧においても、このころには江戸俳壇を代表する俳諧師のひとりと目されるようになる。江戸へ出てきてからの芭蕉の人生はきわめて順調であったと見てよかろう。しかし、延宝八年の冬、芭蕉は突如、日本橋小田原町から深川に移住した。
 いままでの通説では、日本橋での生活を捨てたということは、芭蕉にとって重大な決断を要するほどのものではなかったと考えられていた。しかし、彼が捨てたものの大きさを考えると、深川移住がいかに大きな決断を要したか判然とする。「農人」の次男という不遇な立場に生まれた芭蕉が、人生の半ばを過ぎてようやく築き上げた安定した生活を捨てたのである。これは普通の人間にできることではなかろう。
 これほど大きな犠牲を払ってまで芭蕉が深川に移住しなければならなかった理由は、寿貞と桃印の密通であったと私は考えている。桃印の死を装って藩の役所を欺き、密通の事実を隠蔽するために、芭蕉は余儀なく深川に移住したのだと思う。
 私の推定の是非はともかく、日本橋の安定した生活を捨てたからこそ、後の俳聖芭蕉が生まれたわけだから、結果的に深川に移住したことは芭蕉にとって成功であった。しかし、これは結果論であって、深川移住を決断したときの芭蕉に、そうした将来が見えていたとは考えられない。
 富山奏氏は「辺鄙な深川に隠栖することは、職業俳諧師としては自殺行為に等しく、世人を驚かす異常な行動であった」と述べておられるが(新潮日本古典集成『芭蕉文集』解説)、氏のいわれているとおり、深川に移住することで、芭蕉は俳諧師としての地位を失う危険性は十分あった。
 芭蕉は安定した生活を捨てて深川に移住した。その上に俳諧師としての地位を失えば、芭蕉はすべてを失うことになる。深川移住を決断した芭蕉は、すべてを失うことも覚悟していたと見なければなるまい。このような重大な決断をしなければならなかったのは、よほどの事情があったからではなかろうか。



2010.05.22    

芭蕉 その2  [ 文学・翻訳 ]     
 生き方の変化
 深川に移住した芭蕉は、髪を剃り法体となって僧侶同然の質素な生活をするようになった。深川移住以前の芭蕉とまったく別人の生活をはじめたのである。深川移住以前の芭蕉は、人並み以上の実務能力を発揮して世俗的な成功を収めていた。また俳諧においても、『桃青三百韻附両吟二百韻』『桃青門弟独吟二十歌仙』などと、自分の俳号を冠した俳書を出版しているところを見ると、自分を売りこむことに熱心であり、世俗的な意味で、成功しようという野心がかなり旺盛であったことがわかる。
 しかし、貞享年間以後の芭蕉の生き方を見ると、実生活においてはもちろん、俳諧においても名声を求めようとしたようすはない。名声を求めようとしない芭蕉の生き方がかえって芭蕉の声望を高め、結果的に世俗的な名声を芭蕉にもたらすことになった。
 深川に移住してから芭蕉は生き方を根本的に変えた。このことは当然、彼の人生観が根本的に変わったことを示しているが、この人生観の変化に仏頂和尚が大きな影響を及ぼしたと考えられる。芭蕉と仏頂の具体的な関係を示す資料はほとんどないが、深川移住後の芭蕉が、禅僧さながらの生き方をしていることを考えると、禅僧である仏頂の影響の大きさを想定せざるをえないと思う。仏頂の影響は従来からいわれてきたことだが、私は、従来考えられていた以上に、芭蕉にたいする仏頂の影響は大きかったと思う。
 しかし、芭蕉が仏頂と出会ったのは、彼が深川に移住した後である。したがって、芭蕉が深川に移住した、その決断には、仏頂は何ら関与していない。深川移住は芭蕉独自の決断であったと見てよかろう。
(引用終わり)

2010.05.29    

芭蕉  [ 文学・翻訳 ]     


● P206以下から引用
 芭蕉の現実生活にかかわる係累は桃印だけではなかった。芭蕉の身辺に寿貞尼という女性がいたことは一般にもかなりよく知られているところであろう。二人の間柄には今もって謎が多いが、晩年の、あるいはそれ以前からの芭蕉が、いわゆる風雅の外側で引きずっていた苦労の対象であったことだけは確かである。
 問題の発端は明治の末、沼波瓊音が、
  寿貞は翁の若き時の妾にて、とく尼になりしなり。その子次郎兵衛も仕へ中されし由。
とある文献を発見、紹介したことにある。瓊音は江戸時代を通じて”俳聖”に祭り上げられてきた芭蕉にもこうした色恋沙汰のあったことに芭蕉の真の人間味を感じ、
「芭蕉様、ようこそ妾を待って下すつた」と感動して、この資料の喧伝に努めた。
 資料は芭蕉没後四十数年たったころ、広島の俳人風律が芭蕉直門の高弟志太野坡から聞いたさまざまな事柄を筆記した『小ばなし』という肉筆本で、その中に右の一条がある。瓊音の発表の反響は非常に大きく、花やかなりし若き日の芭蕉の姿を夢みる多彩な論も出た。しかし、直門の高弟野坡から出た話として信用する人びとがある一方で、時代の下る聞き書きだけにいつどこで誤解や誤伝が介入しているか分からない、として疑問視する人びともあった。爾来ほぼ八十年、この問題をめぐって種々様々の見解が複雑にからみあって展開されてきた。
 この間、芭蕉自身の書簡や信憑性の高い同時代資料も次第に発見され、現在ではこれらの同時代資料と『小ばなし』の話がどうかかわるのか、あるいはかかわらないのかが問題になっているが、同時代資料だけから確実にわかる事実は次のとおりである。
 一、寿貞には元禄六年で十五歳前後に達した二郎兵衛という息子と、その下のまさ・おふうという娘との、三人の実子があったこと(芭蕉書簡・其角著『芭蕉翁終焉記』)。
 二、その三人とも芭蕉の子ではないこと(右『終焉記』その他)。
 三、寿貞母子が芭蕉と同居した事実はないこと(芭蕉書簡)。
 四、ただし二郎兵衛だけは桃印没後の元禄六年夏以降、芭蕉と芭蕉庵に同居して雑用の役を勤めていたこと(芭蕉書簡)。
 五、芭蕉が元禄七年五月帰郷の旅に出発したあとで、寿貞とまさ・おふうが芭蕉庵に移って暮らしたこと(芭蕉書簡)。
 六、芭蕉はこの帰郷の旅に二郎兵衛を同伴したこと(芭蕉書簡)。
 七、寿貞が芭蕉庵で病没したことを、芭蕉が六月八日に知ったこと(芭蕉書簡・支考著『芭蕉翁追善之日記』)。
八、その七月、郷里で孟蘭盆を迎えた芭蕉が次の句を詠んだこと(元禄八年刊『有機海』)
    尼寿貞が身まかりけると聞きて
   数ならぬ身とな思ひそ魂祭
九、その十月、大坂で病没する際の芭蕉が、寿貞亡き跡のまさ・おふうをよろしく頼むと、江戸の血縁者猪兵衛に遺言したこと(芭蕉遺言状)。
十、芭蕉の身辺に寿貞母子や挑印が現れる最初は、文献上では元禄三年であること(元禄三年九月十二日付曾良宛芭蕉書簡と、同月二十六日付芭蕉宛曾良返信)。

『小ばなし』の話を信用する立場からは次のような説が出されている。すなわち、寿貞は文字どおり芭蕉の若い時だけの妾(内妻)だったろう。それは郷里在住時代か江戸移住後も早い時分のことで、その後二人は関係を清算し、寿貞はほかの男と正式の結婚をして三人の子を設けた。ところが不幸にして死別か不仲かで夫と別れ、子供をかかえて生活に難渋しているのが芭蕉の知るところとなり、芭蕉はこんどは内妻といった関係ではなく、ただ旧縁の者として母子ともに生活の後見役を買って出た、というのである。この説は『小ばなし』の妾説も右の十項目の事実もすべてを矛盾なく生かしている点で、よく辻棲があっている。そのせいであろう、現在はこれを支持する人びとが多いように思われる。しかし説明としては辻棲が合っても、いまひとつ真実感に欠ける印象は否めないようである。
 若いとき内妻だった寿貞が芭蕉の子を産まず、他に嫁して三人の子を設けることは、ありえなくはないが少し変である。しかもその寿貞が夫と生別か死別かして三人の子をつれてふたたび前の愛人芭蕉の庇護を受けるなど、これもありえないことではないが、あまりにも都合のよすぎる話ではある。その一方、芭蕉がいくつかの書簡でこれらの子について触れる文言には、いつも愛情にみちたやさしい思いやりが流れているが、いかに寿貞が昔の愛人だったとはいえ、ほかの男との間に設けた子供にこれほどまでの愛情がもてるものかどうか(そこで昭和二十年代ごろまでは三人を芭蕉と寿貞との実子とみる説も盛んに行なわれたほどだが、前記の事実によって現在ではもはや成立しえない)。この説のストーリーにはそういった不自然さが付きまとうのである。
 そこで、三人の子供はもっと芭蕉に身近な、血縁に繋がる者の子供ではなかったのか、との視点から資料を見直し、寿貞妾説は何かの誤解にもとづく誤伝として退け、寿貞を芭蕉が親代りになって面倒を見てきた最愛の甥桃印の妻と見る説が現れた。これならば三人の子供はいわば芭蕉の孫であり、細やかな愛情の目をそそぐのもきわめて自然である。寿貞内妻説の立場からは、生涯正妻の座に据えてやれなかった寿貞の不遇を悼んだ句と解された追善句「数ならぬ身とな思ひそ魂祭」にしても、人生に恵まれることも何一つなく最後は肺結核で三十三の若さで死んだ桃印の妻の不遇を悼んだ、慟哭の詩とみることは十分できる。
 問題は元禄六年で十五歳前後の二郎兵衛がその年三十三歳であった桃印の子でありうるかどうかである。しかしこれは、挑印がもし十九で寿貞と結ばれ二十で二郎兵衛が生まれたとすれば、元禄六年には十四歳で、ありうることである。商家の丁稚が十歳前後で奉公に入り、十五、六歳には半元服して店の仕事に従事した時代であってみれば、二郎兵衛の年齢は芭蕉の身辺雑用の役を果たすに格好の年ごろでさえある。元禄七年、十五で芭蕉帰郷の旅に同行することも同様である。さらにいえば、芭蕉が彼をこの旅に同伴したのは、身辺雑用の助けもさることながら、郷里に一人残った桃印の老母に孫の顔を見せる心遺いがあったのではないか。等々、桃印・寿貞婚姻説は前記十項目の事実をすべて説明できることや、三十三になっていた桃印にはふつうなら妻子があって然るべきであることなど考え合わせると、これもまた有力な説としなければならない。ただ問題は『小ばなし』のキーポイントである「若き時の妾にて」を否定する点にあり、妾説を信用する人ぴとの多い中では、この説の支持者は現在少数
派のようである。
 いずれにしても、現実の生活人としての芭蕉は気苦労の絶えない、後見者としての重荷を背負って生きていたのは確かである。悲劇の桃印はなお然りであった。




駄句 < 新千歳 膝枕まで あと少し >
    < 手を握り 二人で歩く 2億年 >(花蓮の大理石の歩道の上を夜歩きながら)